2011年7月17日日曜日

ストーリー解析から分かる、人に好かれる方法

突然だが、あなたが耳を傾ける人はどのような人だろうか。

尊敬する人であったり、友人であったり、恋人であったり、
基本的に自分にとって重要だと思える人の話を聞くのではないだろうか?

当たり前のことかもしれないが、ある人の考えを変えられるのは、
その人にとって重要であり、好ましい人である。

そこで、ある社会の中で人に好かれるというのは影響力という点で
大変重要な意味を持つことになる。

私の専門の一つはストーリー解析なので、その観点から人に好かれる方法
を考えてみよう。

ストーリーにはその性質上好かれやすいキャラクターというのがいる。

分かりやすい例で言えばアンパンマン、悟空、ブラックジャックなど、
ある物語の主人公であり、敵を倒したり、問題を解決する役割を担っている
キャラクターである。
(これはストーリー解析ではGドライバーにあたる)

また、「宇宙兄弟」の主人公ムッタなど夢を叶えようとしている人や、
「マクロスF」のランカやシェリルのように愛を告白するキャラクターも
好かれる傾向にある。
(こちらはストーリー解析ではLドライバーにあたる)

キャラクターの好感度はストーリーだけで決まるわけではなく、
出番の回数や、性格、容姿なども大きく関係するが、ストーリー解析的に
言えば、上記のような役割を持つキャラクターが好かれやすい。

さて、ここまでの話は空想上のキャラクターについての話であるが、
実はストーリー解析的には空想上のストーリーと、現実にはほとんど差が無い。

そもそも人間の認識というものは記憶で成り立っており、
ある人がある人を認識する際には、その人の経験してきた数多くのストーリー
やエピソードを無意識に参照している。(脳の中では網様体賦活系にあたる)

つまり、ストーリー解析的に言えば、ある人に好かれるためには、
その人が経験してきたストーリーの中から見て好かれる役割にあるという
ことが大事になる。

ということは、好かれるということは「あなた」が相手から見てどういう役割と
認識されるかが大事だということだ。

このような視点で改めて、ストーリー上の役割を見ていくと、
人から好かれる事が多いのは、空想上と同じく

・敵を倒す人
・何かを解決する人
・夢を叶えようとする人
・愛を告白する人

ということである。スポーツ選手とか、医者とか、職業自体がそのような役割を
もっていることもあるが、そのような職業についている人はまれなので、
例えば、仕事上で起こってくる問題を解決してくれる人とか、悩みを解決してくれる人
とか、何か目標を持って頑張ってる人とか、告白する人などがありえる。

このように考えると上の例はまさに主人公という感じである。つまり、他の人にとって
あなたがストーリーの主人公であり、頼れる存在、輝いている存在ということだ。

また一方で、このことを逆に使って脇役になるという手もある。それはある人にとって
あなたが良きサポーターであるという役割を持つということである。
具体的には、

・敵を倒すのを手伝ってくれる人
・何かを解決するのを手伝ってくれる人
・夢を応援して支えてくれる人

である。(「愛を告白するのを手伝ってくれる人」は残念ながら友達としてしか好かれないであろう)
ただし、このような脇役というのは主人公に比べると好かれる度合いは低いだろう。

このようにストーリー解析的には、人に好かれるためには主人公的な役割であることが
望ましく、それが無理なら良き脇役の役割ということになる。

もし、あなたが人に好かれたいのであれば、このような役割に積極的に係わることが
重要である。特に何かを解決する人は小さなこと(例えば、何かを無くしたものを見つけるとか、
ゴミを拾うとか)でも良いし、愛の告白は単に何かを好きと表明するだけでも良い。
そのような些細なことであっても、その行為はある人の過去のストーリーを
通して好ましい人物として認識されるのである。

解決すべき問題などがある場合、それは好感度UPのための絶好のチャンスであるから、
すすんで問題を解決するのが良いだろう。また、好きなものは好きと表明することが
他の人から好かれるコツである。(ただし、引かれるようなものは別である)

2011年7月4日月曜日

【菌グダム】あらすじ

ストーリー構築法による構築の実践例

[タイトル]
菌グダム

[ドライバー]
メインドライバー

L 菌子
|
F 抗生

E 菌グダム計画(菌による世界征服)
|
G 菌子

サブドライバー
{P}
P1=菌子は菌好き少女
P2=抗生は抗菌少年で幼なじみ。菌子は抗生が好き
P3=菌の特殊な能力
P4=菌グダム計画(菌王国の世界征服計画)
P5=菌王国のその後(オチ)

[ストーリーライン]
P1-P2-P3(EG)-E(P4)-L-G-F-P5

[キャッチコピー]
私、菌で世界征服してやるわ。

[あらすじ]
ある日、中学2年生の女の子木野菌子(きのきんこ(仮))はお風呂で珍しいカビを発見する。菌子はさっそくそのカビを部屋の培養器に入れて眠りにつく。菌子は菌が大好きなのだ。

次の日の朝、菌子は旅行に出かけようとする両親に起こされる。寝ぼけまなこで残された菌子が培養器を開けると、中から巨大な菌、自称菌王国の王子「プリンス」と側近「デンコ」が現れる。
寝坊して焦っている菌子は大喜びしつつも大急ぎで学校に向かう。

菌女として学校でも有名な菌子は男子グループにバカにされることもしばしば。そんな状況を女友達のハルカとカスミは憂いていた。うっとうしい攻撃をしかけてくる男子に対して菌子に着いてきたプリンスが特殊な菌アタマカラキノコ菌を使って反撃する。プリンスの特殊な菌能力に目をつけた菌子は、抜き打ちテストを実施しようとする世界史の教師もグースカピ菌で撃退する。

菌が活躍して大満足の菌子だが、そんな菌子にも悩みがあった。それは幼なじみでクラスメイトの薬丸抗生(やくまるこうせい(仮))への恋心である。化学メーカーに勤める父を持つ抗生は抗菌王子と呼ばれ、常に抗菌グッズを携行している。
普段は超強気の菌子だが、菌好きの自分は到底受け入れられないと思っているのだ。

菌の覇道をひた走ろうとする菌子に危険を感じたハルカとカスミは菌子の家でお泊り緊急会議(第8回ガールズトーク)を開催する。はじめは女の子として菌の覇道の危険性を諭すハルカとカスミだが、プリンスがホレボレ菌(ホレ薬)の存在を示唆すると一転、菌の擁護に回り勝手に抗生に電話して告白日程を決めてしまう。

その夜遅く、静けさの戻った家の台所で菌王国に連絡をとるプリンス。実はプリンスは菌王国の工作員だったのだ。そこで語られる「菌グダム計画」、それは人間を媒体にしてパンデミックを引き起こすドレイドレイ菌を全世界に撒き散らし、人間を奴隷にすることで世界征服を実現する計画である。プリンスは菌子をターゲットにするよう命じられていたが、菌子のあまりの菌好きに心をうたれそれを躊躇していた。菌王国諜報部はエージェントの交代と、ターゲットを宿敵にあたる抗生にすることに決める。

深夜、トイレに起きた菌子はプリンスに「強く願えば想いは伝わる」と応援される。
だが、菌子はただ応援されたのだと思ってあまり気にとめない。


朝、ホレボレ菌(ドレイドレイ菌)を手渡す新エージェントの「アサシン」。プリンスは国に帰ったと伝えられ少し困惑する菌子。
学校に着くと、菌子は逆に抗生に呼び出される。
屋上で待つ抗生の前に現れた菌子は覚悟を決めた顔をしている。

菌VS抗菌バトルが始まると思って集まる野次馬と行く末を見守るハルカとカスミ、そしてアサシン。
周囲が見守る中、菌子は手に握り締めていたホレボレ菌(ドレイドレイ菌)を投げ捨てて「菌も好きだが、抗生も好きだ」と告白をする。唖然とする抗生と男子グループ。ときめくハルカとカスミ。
しかし、抗生は投げ捨てられた菌を追う。投げ捨てたドレイドレイ菌は下を歩いていた生徒に直撃し、パンデミックが発生する。
それにさらに驚く男子グループとハルカとカスミと菌子。抗生は本部に緊急支援を要請し、白い防護服に身を包んだ滅菌隊とヘリが駆けつける。実は抗生は対バイオテロの部隊の一員であり、菌王国によるバイオテロを予見していたのだ。

事態が収束し、放課後、事態がよく分かってない教師陣に怒られる菌子と抗生。久しぶりに一緒に帰ることになった抗生は渡すものがあるといって菌子の家を訪れる。丁度家に帰ってきていた菌子の両親にカビ除去の新商品を手渡す抗生。恋愛関係を突っ込まれた抗生は「菌子はライバルですから」と答える。

その夜、自室で少し照れる菌子。もはや菌王国のことなど頭にない。菌王国の野望は続くと思いきや、お風呂場の菌王国はキレイ好きの母によって除去されてしまうのだった。


おわり

2011年4月14日木曜日

アンチコミュニティのジレンマからクオリティ主義へ

思いつくがままに文章を書くというのは楽しいものである。

それは子供としての自由で無邪気な発想が、何の制約も受けないまま創出されるからであろう。

しかし、その書き手が大人である場合、思いつくがままの文章を構成することに何の意味があるのか?ということを考えずにはいられない。

あるいは、逆に言えば、褒められたいとか、参照されたいとかいう、承認の欲求を捨てられるものではない。
なぜならば、承認されることもまた楽しいからである。この欲求は親などから無条件に承認されうる子供よりも、社会的価値を問われる大人の方が強いかもしれない。

しかし、ある文章を書く場合に、その文章が自分以外の誰かに読まれるということを前提とするとおのずとその表現には制約が生まれる。このことは、思いつくがままの文章の楽しさというものを阻害しないだろうか?

これは文章以外の表現でも同じだろう。

私は過去に、思いつくがままの楽しさを阻害しない枠組みとして、社会的制約から自由である活動というアンチコミュニティを提唱した。

しかし、アンチコミュニティというのは先にあげた、承認の欲求という楽しさとは矛盾する。アンチコミュニティの狙いは創作のエネルギーを阻害しないということであったが、その点でやはり、アンチコミュニティにも創作のエネルギーを失わせる要因があることには違いない。

つまり、コミュニティかアンチコミュニティかの2者択一の選択では、エネルギーの喪失というものを免れることができない。
これがアンチコミュニティのジレンマである。

そこで、今度はさらに別の見方を提唱しようと思う。それは、創出されるもののクオリティを重要視するということである。これを「クオリティ主義」と呼ぶことにする。

まず、ある情報がコミュニティの中で共有されるとき、その原動力となるのは、その情報自体のクオリティである。

あるコンテンツがユーザーによって自発的に参照される傾向がある場合、それをそのコンテンツが「拡散力」を持つと呼ぶことにしよう。あるコンテンツが「拡散力」を持つ要因の一つに、そのコンテンツ自体のクオリティが高いということが挙げられる。

現在のネットコミュニティの存在は、情報へのアクセスを容易で広範なものに変え、クオリティの方向性についての自由度を大きく広げた。このような環境ではクオリティさえ高ければ、それがどんなものかということはあまり問題にならない。
それは、そのようなものが好きな人がコミュニティに存在する可能性が高いからである。

別な言い方をすれば、我々はコミュニティにおいて「自分の思いつくがままの感性を共有しうる人物が必ず他にもいる」と仮定する。(これを共有性の仮定と呼ぶことにする。)

このような仮定の下では「何を」作るかということについて、我々はまったく思いつくがままでかまわない。
そして、その「何か」についてクオリティを上げるということだけに注目すれば、そのコンテンツ自体の拡散力によって、承認の欲求は自ずと満たされるだろう。

我々が創作の枠組みについて憂慮すべきことは、それが共有を前提とするかどうかではなく、クオリティを上げられないかということだけである。

最後に注意点を挙げるならば、コミュニティの流行を追うのではなく、自分の流行を追うということであろう。コミュニティの流行を追えば、承認の欲求は満足されるが、思いつくがままの楽しみというのは失われる。
一方自分の流行は、先の仮定によれば、少なくとも自分だけの流行ではない。ゆえに、それが十分なクオリティをもちさえすれば拡散され、承認の欲求も思いつくがままの楽しみも同時に満足される。

また、全く別の尺度として、それが金銭的対価を要求するものである場合、生活のためにある程度の規模を持つコミュニティに属する内容を扱うというのは必要なことだろう。特に創作を経済基盤とする場合にはそれが重要になる。それは言い換えれば、思いつくがままというエネルギーの喪失分を、金銭的対価で補うということだ。

私たちの創作のエネルギーは、思いつくがまま、しかもそれが承認されるときに最大化される。そのために、コンテンツ自体のクオリティにこだわるということが現代の良策ではないだろうか。

2011年4月10日日曜日

【創作理論】夢見る創作法

ここでは「夢見る創作法」の解説をする。「夢見る創作法」とは夢をみるように創作する
創作手法のことである。

この方法はコントロールが難しいが、ある程度本質的である。

認知科学の進歩によって、我々の認識やリアリティというものが記憶で成り立っているということが分かり始めている。我々が創作と呼んでいるものも、おそらく理論的には記憶の合成であることに間違いはない。そこで我々は記憶の合成を引き起こしやすい意識の状態について興味があるのである。

一方、アイデアに比べてストーリーはある一定のきまり(例えば、時空の整合性や話の整合性、普遍的な面白さ)が存在するため、そこにはある程度論理的な思考が介在すると考えられる。

この2つを夢に例えると分かりやすい。我々が夢を見るとき、その夢の内容は明らかに我々の体験した記憶そのものではないが、そこではいくつかの記憶が合成され独特のリアリティを形成している。その点で夢は創作的である。しかし、それは多くの場合、まったく整合性を持たない。

では、ここで本題の「夢見る創作法」について解説していこう。

「夢見る創作法」は夢と同じように記憶の合成を行う手法である。
この方法論は主に作品世界のビジョンを得るのに用いる。ここでいうビジョンというのは作品の状況、設定、登場人物の3つである。
まず、重要なことはこの方法論において作品世界のビジョンを決定する作業は無意識の能力によってなされる、
ということである。

だだし、ここでいう無意識とは意識の無い状態ではなく、意識のレベルが低い
状態を指す。意識のレベルについては後ろの意識の性質を見て欲しい。

創作するには、ある作品世界のビジョンの各要素をパラレルに決定する必要があり、
意識のレベルが高い状態での指向性は邪魔になる。

しかし、一方である作品空間を限定するためには、少なくともそれを維持する為の
指向性が必要であり、ビジョンの決定を完全に無意識で行うことはできない。

そのため、意識はぼんやりとあるが、漂っている状態を維持することが必要である。
これを漂流状態(ドリフト状態)と呼ぶことにする。
今、どのような段階にあるかは意識と無意識の機能の違いを見極めればよい。

[意識と無意識の性質]--------------------

該当するものが強い、多いほどそのレベルが高い。

意識:
物理世界にいる感じがする
指向性がある
シリアル思考(特に言語を用いた思考)
コントロールが可能

無意識:
物理世界にいる感じがしない
合成能力がある
指向性が無い。漂流する
パラレル思考
コントロールが難しい

----------------------------------------

まず、長時間維持できる姿勢をとる。寝ないように背はもたれない方がよい。
次に呼吸に注目して、吐くときに体の力を抜いていき、意識のレベルを下げていく。

初期段階では意識のレベルを下げる必要があるため、何か特定の事項について
考えることはしない。

次に状態を作品空間に限定する。その作品のシーンを思い出したり、
登場人物などについて注目する。
意識的に特定の何かにこだわると無意識の抵抗にあうので、選択は
ある程度無意識に任せる。

ある記憶の想起や、あるイメージへの注目は「合成」の前駆段階である。
漂流状態の意識状態は記憶を呼び出している状態と似ているが、
あるイメージが記憶そのものであるかどうかで区別出来る。
次に合成しやすい状態に意識を持っていく。

合成が行われているかどうかは、見たこと無いもの、概念が含まれるかどうかで
判別する。想起と合成の感覚は似ているが、おそらくドーパミン等の体感が違う。
簡単に言うと、想起は別段気持ちよいというわけではないが、合成は気持ちよい。
あるイメージについて、どうしたらよいだろうか?などの言語による誘導は避け、
それがどのような「感じ」であるかだけに注目するとうまくいくことが多い。
十分意識のレベルが下がっており、作品空間内での漂流を始めると、
無意識がイメージの合成を始める。

漂流中の意識のコントロールは、どの「感じ」に注目するかをコントロールすることで
行う。ここで、言語による連想はしない方がよい。言語を用いると意識の
レベルが上がってしまうし、想起される対象が作品空間を越えてしまいやすい。
次々と注目する「感じ」に意識を向けるだけで良い。

ある特定の問題を解決したい場合、その問題だけを解決しようとすると
指向性が強くなりすぎて、合成能力が失われるため逆効果である。そこで、
あくまで意識のレベルを下げた状態で周辺を漂流することが大事である。

あとは漂流しながら、できるだけ多くの合成をする。

もし、作品空間に入る前に雑念が沸いて来る場合、それは意識のレベルが高すぎる。
その場合、止観によってそれがいわれのあることなのかを調べれば消すことが出来る。
単に受け流すことでも離れることが出来るが、気になっている以上再び出てくる可能性が高い。

漂流中に作品空間から外れてしまった場合は、やはり再び意識のレベルを下げる。
外れる理由の多くは、作品空間外部への連想や、記憶の想起である。それらは
単に注目せず受け流しておけば、注目度の高い作品空間に再び戻ることが出来る。
はじめのうちは漂流をコントロールしようとせず、範囲だけを限定するようにすると
よい。

このような漂流はおそらく姿勢の維持できる時間だけ続けられる。
ただし、飽きたり、眠くなったりもするので朝が望ましい。
何らかの儀式化や、反復訓練により一日のうちの漂流時間は長くすることが
可能だと考えられる。それは非常にクリエイティブな生活といえるだろう。

漂流状態での意識と無意識の塩梅がもっとも重要である。それにはもちろん体感を伴う
訓練が必要である。

漂流する範囲が広すぎる場合は、ビジョンの上位概念である「意図」が未決定である可能性が
高い。ある程度アイデアが集まったら一度、意図を決定し、その意図に基づいて再びビジョンを
作りこむ必要がある。これは作品に関するすべての事項を決定するのが直観と意図だから
である。

2011年4月9日土曜日

バカとアホと、時々天才

バカとアホは似て非なるものである。

頭の悪さにはいくつかの種類がある。

1.バカ

理解力が足りなくて歯がゆい状態。
これは単にバカと呼ぶ。より厳密には、理解力不足の為に
ある2者の間でコミュニケーションが破綻している場合に、
一方が他方のことを、バカと呼ぶ。

2.自称バカ

ある人が自身をバカと称する場合、バカと宣言することで
何らかの問題提起をしているか、解決を放棄している場合がある。
このどちらも、共通認識があるという点でコミュニケーションの決定的な
破綻には至らない。これらを区別する場合「自称バカ」とすべきだろう。
悪質な場合、交流分析でいう「ゲーム」の原因になる場合もある。
(例えば、「私はバカです」「あなたは何て頭がいいんでしょう」といった具合。)

3.愛情表現としてのバカ

そういうものもある。

4.アホ

未発達ゆえの幼児性や無邪気さが発揮された場合アホと呼ぶ。
理性へのアンチテーゼとしての役割がある。

5.天才

天才は「素晴らしい」という意味で使う。その点ではバカと異なる。
天才を「理解できない」という意味で使う場合、それは特異な存在である
ことを認めているだけであり、バカと似ている。


最後にバカ三段論法を述べておく。

A=バカ。B=バカ
ゆえに
A=B

ここで、最後の式でバカが省略されていることに注目して欲しい。
このとき、あなたは何かやり場のない怒りを感じるだろうか?
感じるならば、それがバカに対するもどかしさというものだ。

2011年4月8日金曜日

夢見る創作法

「夢を見るように創作するんだ」

ライツニヒはまるで独り言のようにそう言った。

僕にはそれがどういう意味かまるで分からなかった。僕はもっと
原理的で、説明的で、そうあたかも工学のような手法を想像していた。

ライツニヒは普段、日曜版の新聞についてくる数学パズルを喜んで
といてるような男だった。そんな男が創作について論文を書いているというので、
文科系の僕は興味を引かれたのだ。

「君は意外に詩的な事を言うのだね」

ライツニヒは手にしていた分厚い本を閉じて、僕の方を見た。
彼の目は青かった。僕は彼がその本の開いていたページ数を
目印をつけるように見やるのを見逃さなかった。

「そうじゃないさ」

彼は少し笑みを浮かべながら、友達を驚かせようとしている子供のように
 目を輝かせた。

「説明して欲しいところだね」

僕がそれに応じてみせると、彼は少しためらう様なフリをしてから
「よろしい」と言った。

「まず君は創作法というものを、科学の一分野か何かのようなものだと
思っているらしい」

えらくもったいぶった言い方である。

「君がそれを発見したと聞いたけど、違うのかい?」

ライツニヒは『フフン』と言ったような気が僕はした。

「それは半分正しいね。しかし、物理学だとか、言語学だとかそういった類ではないんだ。
強いて言うなら、脳科学ということになる。

君は夜に夢を見たことがあるだろう?」

「そりゃあね」

「それじゃあ聞くけど、その夢の著作権は誰に帰属すると思う?」

「君は夢日記でもつけろと言うのかい?」

「半分はそうだが、半分は違う。僕は夢も創作も本質は同じなのではないかと
考えているんだ。創作とは何だろう?未知のものを生み出すことだろうか?
それは、おそらく『自分も知らない』ものを生み出すということだと思う。
じゃあ、我々は『自分も知らない』ものをいったいいつ生み出しているだろうか?」

「それが夢だと?でも、僕は夢を創作だとは思わないね」

「そう夢はヒントでしかない。夢は内容をコントロールできないし、いつ見られるかも分からない。
しかし、夢の合成能力には注目する必要がある。僕は、『半分夢を見ている状態』
それが創作の本質だと捉えているんだ。『白昼夢』といった方が適切かもしれない」

「『半分夢を見ている状態』?」

「意識のレベルを落とすということさ。意識がはっきりしている状態では合成能力を
発揮できない。しかし、落としすぎると寝てしまうし、指向性を確保できない。

初歩的なところは瞑想と同じだ。呼吸に着目して体の力を抜いていく。そして
意識のレベルを落としていく。その後で創作に関わる場面や事項を思い出すのが効果的だ。
そこで、創作に関する『記憶』の構築が行われる」

「どうも妙な話になってきたね。じゃあ物語の法則性みたいなものを
利用するわけじゃないんだね」

「重要なのは、創造能力、あるいは記憶の合成能力というものが無意識の持っている能力
ということなんだ。だから、意識のレベルは落とす必要あがあるし、創作の法則性を
生かした方法はうまくいかない。例えば物語論やグラフ理論を用いた解析的手法は、
物語を形式的に合成できたとしても無意識の抵抗にあってしまう。意識的な方法論は
結局、記憶というバックボーンがネックになるんだ」

僕は彼の話についていけているのか少し不安になった。ただ、彼がどうも『工学的』な
創作法を発見したのではなく、『瞑想的』な創作法を発見したということは
理解出来た気がする。

「それで例えば僕が作家になるにはどうすればいいんだい?」

「まず、意識のレベルを落とす訓練をすることだね。それが出来れば、
大事なことはほとんど無意識がやってくれるよ」

「意識のレベルを落とすというのは意外な結論だね」

「そう、それが『夢見る創作法』の本質さ。ただ、僕は意識の役割をまだ捨て切れては
いないんだけどね」

ライツニヒは得意げであったが、また同時に不満気のようにも見えた。きっとそれは、彼が
修めてきた科学の有用性への信奉だとか未練のようなものなのだろう。

僕は、彼と共有できない彼の葛藤のようなものをうっすらと感じたが、それは僕にとって
言語化するには希薄すぎた。
ただ、人間という括りの中で創造性にまつわる機能について、何らかの共通部分を
彼は提供してくれたようだ。
 それは多くの人の隔たりである、出生や立場を越えて誰しもが経験しうることなのかもしれない。

2011年4月3日日曜日

沈黙は金なり

議論するには時間と労力が必要だ。しかし、そのどちらにも限界があるということは皆わかっているだろう。
つまり、議論には「有益な結論」と「労力」のトレードオフが成り立っているのである。

そこで、結論の出ないような議論を避ける為には、その事柄について言及しないということが大事だ。
それを先人の言葉にならい「沈黙は金なり」と呼ぶことにしよう。「言い出すときりが無い」という言い方も逆説的に同じである。

まず、議論の前提として、相手の言うことを理解する、自分の意見を正確に伝えるということにも、詳細さに応じて労力がかかるということを知らなければならない。そもそも意思の疎通や、意見の集約それ自体が大変なこともある。

総じて言えば、議論の「詳細さ」や「正確さ」に応じて「労力」は増大する。

議論は途中でやめると「結論がでなかった」「理解されなかった」「理解できなかった」という不満が残る。そのことが、たとえ議論が途中で無駄と思われてもやめられない原因になる。「乗りかかった船」というやつだ。

そもそも、「すべての参加者が完璧に理解することを望むべし」というのは、ほとんど非現実的な考え方であって、まずはその必要性を疑うことが大事である。必要以上に議論に詳細さを求めれば、その議論自体が時間的、労力的制約によって破綻する。

そこで、その過程で得られる対価が十分でないと見込まれるとき、「始めない」というのが選択肢として実用的なのである。(もちろん始める場合は最短経路で終わらせるのがよいだろう。)

もし、どうしても徹底的な議論が必要な場合は、十分な対価を保証する必要がある。
それには金銭的なものだけでなく、教育効果や、キャリア的なもの、それによって得られる情報が有益なものなどがある。

(人間同士がコミュニケーションするときに、議論の内容に関係なく心理学的な効果(例えば気が晴れたり)はある。しかし、心理学的な効果を得るだけならば、結論は出なくても構わないし、もっと有効な他のやり方もある。)

ただし、少し注意しなければならないのは、必ずしも議論の前にその価値が分かるものではないということである。多くの人に経験があると思うが、思いがけない発見をすることもあり、対価が「不明」な場合、それを「無い」とみなすのは早計である。対価が「不明」な場合は「とりあえず始めてみる」が有効な場合もある。

これらをまとめると議論の開始と対象は次のように分類できる。

「始める」:十分な対価が得られる事。
「始めない」:十分な対価が得られず、意見の分かれる事。(沈黙は金なり)
「とりあえず始める」:十分な対価が得られる保証はないが、労力がかからず、
反対する人もいない事。(セレンディピティ)

とりあえず、注意が必要なのは2つめの「十分な対価が得られず、意見の分かれる事」
だけだ。これが「沈黙は金なり」の対象である。