2012年12月11日火曜日

【ストーリー解析】ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q


2012/11/17に公開された映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のストーリー解析。


*もちろん完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。


■基本情報

企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明

非常に大規模なので、詳細はwikipediaにゆずる。
- http://ja.wikipedia.org/wiki/ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

同時上映 特撮映画「巨神兵東京に現わる」

■声優情報

基本メンバーはいつもの通り。同じメンバーでやれるのはいいこと。

碇シンジ:緒方恵美
渚カヲル:石田彰
アヤナミレイ(仮称):林原めぐみ
式波・アスカ・ラングレー:宮村優子
真希波・マリ・イラストリアス:坂本真綾
葛城ミサト:三石琴乃
碇ゲンドウ:立木文彦

個人的には、鈴原トウジの妹役で沢城みゆきが出ていてテンションが上がった。
あと、大塚明夫も出てる。

林原めぐみは同時上映の「巨神兵東京に現わる」のナレーションも担当。
緊張感のあるいい演技だった。
でも、巨神兵がビームを出すところで「ドラグスレイブ!」と叫びそうになった。

■あらすじ

wikipediaの記事がよくまとまっているので、そちらを参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B1%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%B2%E3%83%B3%E6%96%B0%E5%8A%87%E5%A0%B4%E7%89%88:Q#.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.BC.E3.83.AA.E3.83.BC


■ドライバー

まず、メインドライバーは以下の4つ。

L-F:碇シンジが、元ネルフメンバーに拒否される。
L-L:打ちひしがれたシンジが、カヲル君に優しくされてやる気を取り戻す。
L-F:元気が出たシンジはエヴァに乗って再び世界を取り戻そうとするが失敗する。カヲル君も死ぬ。
E-G:フォースインパクトが引き起こされそうになるが、カヲルが阻止する。

一方、サブドライバーにあたるものは、次のようなものがある。

E-G:葛城ミサトら、反ネルフ組織「ヴィレ」のメンバーが初号機および碇シンジの奪取に成功する。
E-G:「ヴィレ」の艦艇「AAA ヴンダー」が、なんかよく分からん使徒っぽいものを撃破。
P:14年後の未来の設定の紹介。(ニアサードインパクトのこと、シンジの母のこと、レイのことなど。)
L-F:シンジは綾波を助けたものだと思っていたが、実は助けられてなかったようだと判明した。

また次回への伏線として、次のようなサブドライバーもある。

E:碇ゲンドウは何かを画策している。
L:アスカはシンジを気にかけている?
P:アヤナミレイ(仮称)は自我に目覚めようとしている?


ストーリーの具体的展開は次の通り。

E ヴィレの率いるエヴァ2号機(アスカ)、エヴァ8号機(マリ)が、使徒っぽいものを撃破。*1)
|
G 初号機および碇シンジの奪取に成功する。
|
P 碇シンジは目覚めて安堵するが、どうも周りの様子がおかしい。
|
E ヴィレの一団が、使徒っぽいものに襲われる。*2)
|
LF シンジはエヴァに乗って戦おうとするが、葛城ミサト、赤木リツコらに冷たく拒否される。
|
G エヴァ初号機を用いた、ヴィレの新型艦艇「AAA ヴンダー」の活躍により、使徒っぽいものを撃破。
|
P シンジは、今が14年後であることや、助けたはずの綾波レイが見つからなかったこと、エヴァに乗ったら死ぬ首輪を装着されていることを知る。*3)
|
E(シンジから見ればL)ネルフのエヴァMark.09(搭乗者:綾波レイ)がヴンダーを襲撃し、シンジを連れ戻しにくる。*4)
|
P ネルフに戻ったシンジは、碇ゲンドウにエヴァに乗れと言われる。また、同時に同乗パイロットである渚カヲルと出会う。
|
F シンジは、綾波レイ(実は別のクローン)に心の拠り所を求めるが、当然あまり相手にされない。
|
L ネルフでの空虚さの中でカヲル君のピアノに惹かれはじめる。
|
L カヲル君はとっても優しくて、一緒にピアノの練習とかして仲良くなる。
|
P(E) シンジはカヲル君に連れられてニアサードインパクトの現場に行き、シンジが初号機を覚醒させたことが原因で、第3新東京市が壊滅したことを知る。
|
P(F) 冬月がシンジに、綾波レイが母ユイのクローンであることを話す。シンジは、自分の知る綾波を助けられなかったことを知る。
|
L 自暴自棄になっているシンジの元に最後の拠り所であるカヲル君が来て、第13号機がロンギヌスの槍とカシウスの槍を手にすれば世界をやり直せると説得する。
|
L はじめは拒むシンジだったが、カヲルがシンジの首輪を自身に移すと、その優しさに打たれてエヴァに乗ることを決める。
|
L エヴァ13号機に乗り込んだシンジとカオル、護衛のMark.09(アヤナミレイ)は、セントラルドグマ最深部へ辿りつく。
|
E しかし、そこには2種類の槍ではなく、2本のロンギヌスがありカヲルは困惑する。
|
EG そこにアスカの改2号機とマリの8号機が登場し、妨害工作を仕掛けるがシンジはそれを退ける。
|
L シンジは、不安を抱くカヲルの制止を振り切り、2本の槍を引き抜く。
|
F(E) しかし、不安は的中しエヴァは覚醒し上空へと浮上を始める。これはカヲルをトリガーとした「フォースインパクト」の始まりだった。
|
G(E) 上空にいたヴンダーは、それを阻止すべく13号機に攻撃を仕掛けるが、Mark.09の妨害により失敗する。
| |
P(G) 改2号機がMark.09の迎撃に当たるが、結局共倒れになり双方ともエントリープラグで脱出する。 
|
G カヲルは自身がフォースインパクトを止めると言い、二本の槍で13号機自身を貫く。
|
F それと同時に、首輪が発動しカヲルは絶命する。シンジは激しくショックを受ける。
|
G さらにマリにより、シンジのエントリープラグが強制射出され、フォースインパクトが未遂に終わる。
|
P(L)先に射出されていたアスカが、すねていたシンジをエントリープラグから引きずりだし、救出可能圏内まで歩き始める。また、それにアヤナミレイも加わる。
|
(最終作につづく)

注釈)
*1) 正確には、初号機はネルフにより衛星軌道上に封印されており、使徒っぽいものの正体は、自動防衛システム「コード4-A」および、「コード4-B」という設定らしいのだが、視聴者はそこまで分からない。
*2) ネーメシスシリーズというらしいが、何なのかはよく分からない。
*3) この時点ではよく分からないが、後にエヴァを覚醒させる(インパクトのトリガーとなる)と発動する仕組みであることが理解される。名前はDSSチョーカー。
*4) この時点では、シンジは前作で助けた綾波が来たのだと思っている。

■マクロストーリー

マクロに見ると今作の最大のストーリー構造は、

①シンジの絶望、希望、そしてまた絶望

と見ることができる。

まず、ストーリーの前半では、シンジが旧ネルフ関係者から徹底的に拒否される。(信頼していた葛城ミサト、赤木リツコ、アスカ、成長して再登場したトウジの妹など。)そこで、シンジの心の拠り所は、前作で助けた(と思っている)綾波へと向かうが、その助けようとした行為が悲惨なニアサードインパクトを引き起こしたこと、しかも、助けたはずの綾波すら助かっていないことなどを突きつけられ、それもまた絶望に変わる。そこに救済の使者として、カヲルという存在が出て来るのだが、結局フォースインパクトの開始、カヲルの死という最悪の結果に終わる。

細かく言えば、絶望→希望→絶望→希望→絶望となんともブンブン振り回されている。最後のアスカの助けを希望と捉えると、最後に少しだけ希望が見えたということになるのかもしれない。

ともかく、戦闘シーン以外では、時間のほとんどがシンジの心理描写に割かれており、映画館のポスターがシンジとカヲルというのもうなづける。

また、もう一つの重要な構造は

②とにかくフォースインパクト事件を起こす必要がある

ということだ。本作を見て、

1.旧ネルフ職員達はそこまでシンジを拒否するだろうか?もっと同情的なのでは?
2.カヲル君に説得されてエヴァに乗ったのに、カヲル君の言うことを聞かずに槍を抜くだろうか?

という疑問がわいた人も多いと思う。前作ラストでミサトさんは、綾波を助けようとするシンジに「行きなさい、あなた自身の願いの為に!」みたいなこと言っていたし、サードインパクトを起こしたからって冷たすぎる。カヲル君にしても、シンジにとってカヲル君は自分を導いてくれた存在であって、どちらかというと従属的であったはずだ。

このようなストーリーとキャラクターの不一致は、今作のストーリーの中でフォースインパクトが強力な「規定事項」であることを強く示唆している。要するに、キャラクターの整合性を犠牲にしても、達成しなければならない展開だということだ。(もちろん、うまいシナリオライターなら両者を一致させるのだが。)

この点から、フォースインパクト事件は、単なる演出上の盛り上げではなく、最終作、あるいはエヴァ4部作全体を通してのマスターピースであると推測できる。

■最終作のドライバー予想

そうなってくると、やはり最終作の焦点は、「ゲンドウの狙いは何か?」ということになる。サードインパクトの前に、ゲンドウは「初号機覚醒を早めなければならない」と言っていたし、冬月も「やはりシンジとレイで初号機覚醒は成った」というような発言をしている。今作でも、フォースインパクト前にカヲルが「そういうことか」というようなことを言っているし、フォースインパクトがゲンドウらによって画策されていたのは確定的だ。

14年の時を経て、旧ネルフ職員達が反ネルフ組織として活動しているのもそれを阻止する為というのは合点がいく。

ゼーレの最終目的は「人類補完計画」かもしれないが、ゲンドウらは明らかに別の目的を持っている。それが他作同様に「死んだユイにもう一度逢うこと」なのか、「ユイの復活」なのか、「ユイのいる世界の創造」なのかは分からないが、最終作のメインドライバーは「ゲンドウの狙いとその阻止(E-G)」である可能性は高い。今まで、その布石は十分に置かれて来たはずだ。

アダムスとリリスは何なのか?
使徒とは何なのか?
エヴァとは何なのか?
エヴァの覚醒によって何が起こるのか?
2本の槍の使い道は何なのか?
ネブカドネザルの鍵はどう使われるのか?

前作破の中で、ゲンドウはシンジに「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない」と発言している。もちろん、これは一般論を言っているのではなく、その「願望」こそが、ゲンドウの狙いであり、ストーリーの核心であることを視聴者に伝えている。

この発言からは、その願望が「人類補完計画」というような人類規模の願望ではなく、個人的な願望であるということも感じられる。(もし、人類規模の願望であれば、「自分の願望」という言い方はしないだろう。)ゲンドウにとって重要な「ユイ」に関係することは確定的だが、どのような形でそれが実現されるかは不明である。

しかし、ごく単純なストーリー展開から言えば、それに必要な「あらゆる犠牲」はシンジや旧ネルフ職員達には到底受け入れられないものなののはずだ。そうでなければ、ストーリーにならない。例えば、前作でゲンドウが3号機に取り込まれたアスカを見捨てたことを思い出して欲しい。これがもっと大規模に起こるのだろう。

結果としておそらくゲンドウは死ぬことになるだろう。生き残ったエンディングが想像できないし、悪役は何らかの形で退場せねばならない。悲惨な死ではなく、ある程度願いを全うした上での死というのが可能性としては高い。

さて、最終作のストーリーを推定する上でもう一つ重要なことを指摘しておかなければならない。それは、ヱヴァンゲリオン新劇場版の主人公はあくまでシンジだということだ。序、破、Qのすべてがそうであるし、最終作も例外ではないだろう。Qの最後に腑抜けになっているシンジだが、最終作ではまた何らかのきっかけによって持ち直すはずだ。

ここで重要になってくるのが綾波レイの存在だ。Qの中で、冬月がシンジに「レイは初号機のコアに取り込まれた」と説明しているが、この説明にはストーリー上の疑問が残る。破で壮大に持ち上げたはずの綾波レイがこのままフェードアウトするとはとても思えない。Qに登場した、アヤナミレイ(仮称)が自我を持ち始めている点から言っても、それとリンクする形で復活する可能性がある。つまり、アヤナミレイ(仮称)に綾波レイの「魂」が同期する形での復活、あるいは、アヤナミレイ(仮称)の犠牲の上になりたつ、綾波レイとの再会である。シンジをやる気にさせるには、十分な要素だ。

これをゲンドウの狙いと組み合わせると、必然的に、ゲンドウの狙いとシンジの希望(=綾波を助けること)は排他的でなければならない。そして、そのキーとなるのが肉体を失った綾波レイの魂ということになる。

父と子、ユイとレイ、過去か未来か、これらの対称性は非常に良く出来ている。そしてセオリーとしては、子が、ヒロインが、未来が勝つ。

もちろん、それほど単純でなければ、最終的にはレイも失われ、納得の悲劇=シンジが大人になる的な展開で幕を閉じるのかもしれない。
その場合は、レイを救うこと=世界が滅びることになっている可能性もある。それならば、Qの時点で人類補完計画、あるいはゲンドウの狙いを知っているであろう葛城ミサトがシンジに冷たくあたる理由が説明できる。シンジがレイを救おうとすれば世界が滅んでしまうからだ。

細かいフラグはかなりの数が残っているが、メインドライバーは以上のようなものが濃厚だ。
細かいことを言い出すとキリが無いのでこの辺で止める。



ヱヴァ最終作はとても楽しみだ。期待している。

2012年7月22日日曜日

【ストーリー解析】「おおかみこどもの雪と雨」


2012/7/21に公開された映画「おおかみこどもの雪と雨」のストーリー解析をする。


*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。



■基本情報

監督・原作 - 細田守
脚本 - 細田守、奥寺佐渡子
製作 - スタジオ地図/おおかみこどもの雨と雪製作委員会

細田守監督によるオリジナル長編アニメの第二作目。脚本は「時をかける少女」、
「サマーウォーズ」を手がけた奥寺佐渡子と細田守。おそらく、大まかなストーリーは原作者でもある細田が考えたのではないだろうか。

■声優情報

主に俳優、女優などを起用。

花 - 宮崎あおい
彼(おおかみおとこ)- 大沢たかお
雪 - 黒木華、大野百花(幼少期)
雨 - 西井幸人、加部亜門(幼少期)

突然、林原めぐみが出てきて気になってしょうがなかった人もいるかと。「ゲド戦記」に出た菅原文太も出演。

■あらすじ

主人公である花が「おおかみおとこ」との間に授かった2人の子供を懸命に育てる話。ストーリーは公式のあらすじでほとんど語られており、細田守はあまり隠す気がないらしい。一応のネタバレは、姉の雪は人間として、弟の雨は狼としての生活を選択すること。

形式としては雪のモノローグであり、映画の冒頭から要所要所で雪の「語り」が入る。この形式には、声の主が雪であると観客に気がつかせる一方で、「雨との別れ」を示唆する高度な狙いがある。雨がおぼれたシーンで「ひょっとして雨は死んでしまうのでは」と思った人も多いはず。

■ドライバー

メインドライバーは、

1.花が子供達の成長を見届ける(L-F-L)
2.雪が人間としての生き方を見つける(L=E-G)
3.雨が狼としてのの生き方を見つける(L=E-G)

の3つ。

サブドライバーとしては、

1.花とおおかみおとこの恋(L-L)
2.田舎ぐらしを近所の人に助けられる。(E-G)
3.山で滑落した花を、雨が助ける(E-G)

などがある。

全体の構成は次の通り。

L 花は大学の授業に潜っていた「彼」に恋をする。
|
L 花と彼の関係は次第に深まっていく。
|
E(L)彼は自分が「おおかみおとこ」であることを打ち明ける。
|
G(L)花はそれを受け入れる。
|
P 花と彼の間に長女「雪」が生まれる。
|
P 花と彼の間に長男「雨」が生まれる。
|
E 彼が不慮の死を遂げる。
|
L 花は二人の子供を育てようと決心する。
|
EG「おおかみこども」であることを隠しながらの生活に限界を感じ、田舎に越す。
|
E 収入が無く、野菜も上手く育たない。
|
G 近所の人の助けで、生活が軌道に乗る。
|
P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。
|
P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。
|
P 雨は、学校に溶け込めないでいる。
|
P(EG)雨は川で溺れそうになった事故を通じて、自然の世界に惹かれていく。
|
L 雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。
|
E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。
|
G 花と雪が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。
|
EG 雪は学校を嫌がったが、草平が根気よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。
|
P 雪と雨が、おおかみか人間かをめぐって対立する。
|
P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。
|
F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。
| |
P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。
| |
E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。
|
P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。
|
P 草平は、親の問題を打ち明ける。
|
G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。
|
L 草平は、その気持ちに応える。
|
G 雨は花を助ける。
|
F 雨は、森へと旅立つ。花はそれを止めようとする。
|
L 雨が旅立ち、咆哮。花は、その姿に子供の巣立ちを確信する。
|
P エピローグ

マクロに見ると全体の構成としては、4つの物語が展開されている。

①花と彼の出会い
花と彼は恋に落ちる。彼は不安がりながら「おおかみおとこ」であることを明かすが、花はそれを受け入れ、2人は「雪」と「雨」を授かる。(L-L-F-L)

②雪の成長譚
雪は初めは活発で狼らしく走り回っていたが、学校に行き始めてから人間の輪から外れてしまうことを恐れ始める。それがきっかけで、雪はささいなことから草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。しかし、草平はそれを理解し、雪がおおかみであるという秘密を隠し通して、雪を「おおかみ」であることの葛藤から解き放つ。
(L-E-G-F-L)

③雨の成長譚
雨は初めは引っ込み思案で甘えん坊だったが、川で溺れた事件(狩りの成功体験)をきっかけに、次第に自然への興味を深めていく。雨は、森のきつねを先生とよび慕う。しかし、大雨により先生が死に、その後を継ぐことを決意する。(P-L-E-G)

④花の子育ての物語
花はとにかく一生懸命子供たちを育てていく。しかし次第に、人間らしくしようとする雪と、野生に目覚めていく雨とのギャップに不安を感じ始める。おおかみでも人間でもどちらでも選べるようにと思っていたはずなのに、花には雨の生き方を受け入れる準備ができていなかった。初めは雨を引き止めようとする花だが、最後には狼として立派に成長した雨の姿を見て覚悟を決める。それは、花が「母」としての最後の成長を遂げた瞬間だった。
(L-F-E-G-L)

■演出

まず冒頭から度々登場する、実写にかなり近い作画に目を奪われる。特に背景などは実写とアニメの中間のようだ。多くのシーンでCGも使われている。舞台が自然豊かな田舎ということもあり、「トトロ」や「もののけ姫」などのジブリ作品と比較をしたくなる。怪しさや誇張という点から見ると最近のジブリよりもあっさりしており、「トトロ」のそれに近い。
題材が「おおかみこども」ということもあり、「崖の上のポニョ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」にもつながる部分もある。

キャラクターなどの主線部については、走るシーンが多くよく動く。あと、多分、子育てをしている親にとっては「あるある」といったネタが多いのだろうと思う。

おそらくコンセプトは、「自然美」、「狼としてのリアリティ」、「リアルな子育て」といったところか。

■総評

この映画の対象年齢は、子供のいる30代とその子供かもしれない。親は泣いて、子供は狼を見て喜ぶのだろう。子供のときは分からないが、大人になって本当の意味が分かる映画になっているように思う。

映像美は、現代アニメの最高峰と言っても過言ではない出来栄え。とにかく背景と、動きがすごい。しかし、ストーリーには若干の問題がある。まずストーリーが長すぎる。ひとつひとつのエピソードが単発になっており、全体としての流れを欠いている。農作業、自然観察員、川で溺れるくだりなど、メインドライバーと関係の薄いエピソードは除くか、メインドライバーと絡ませる必要があっただろう。

あと男としては、雨にもっと活躍して欲しかった。

■いくつかの謎

設定について、微妙な点が結構ある。

①おおかみおとこの名前
なぜか彼(おおかみおとこ)には名前が無い。というより、おおかみおとこなのに設定がほとんど明らかにならない。

②おおかみおとこの死の謎
死なないと話が進まないのは分かるが、全くの謎というのもどうだろう。

③檻の狼の意味
檻の狼は伏線でも何でもない。

④無口な先生
先生がきつねってどうなの。しかも、全然しゃべらない。どうも知能はあるらしいが、設定が謎。

⑤雪を迎えに行かなくてもいいの?
雨のことを山に探しに行く花の行動に違和感。もう少し、どうしても追いかけなければならない演出が必要だったのかも。

⑥何も言わずに旅立つ雨
何か言っても良さそうなのだが、何も言わない。また、花とは何となく別れを交わしたが、雪とはさっぱり。

⑦雨は家近いんだしたまに帰ってきたらいいんじゃないの?
だよね。

⑧雨って結局なにしてんの?
山の自然観察員みたいなもん?

⑨戸籍とか??
多分なんとかなってるんだろう。

■ストーリー改善案

この作品のストーリーの問題点は、ひとつひとつのエピソードがばらけていることにある。一応、全体を貫くドライバーは、子育てと子離れ(L-F-L)ということになるのだが、だとすると野菜がうんぬんは長すぎた気がする。また、父親であるおおかみおとこのキャラが薄すぎて、役に立っていない。
そこで、

①花が雨と彼をダブらせる描写を入れる。
例えば序盤の変身シーンと、後半の雨の変身シーンをダブらせる。前半で彼に
花をおんぶさせておき、後半で雨が花をおんぶするシーンにつなげるなど、雨の成長を描く。

②花の言葉の中に、彼の言葉を入れる。
雨と父親の接点が無いので、花の言葉の中にそれを織り交ぜておく。視聴者には、それが雨に受け継がれていることが悟れるように。おまじないでも良い。
候補は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とか。彼の口癖にしておけばいい。

③雪が怪我をさせたとき、それを雨がかばう。
しかし、それが原因で雪と雨の溝は深まり、雨は学校から距離を置く。

④溺れたとき助けてくれるのは「先生」
その方が、雨が森に惹かれるきっかけになる。

⑤雨が雪を追い越す描写を入れる。
ケンカがただのケンカになっているので、その後に雨が雪を助ける描写を入れる。雨には「母さんを頼む」ぐらいは言って欲しかった。

つまり、後半のドライバーは「急成長する雨」を主軸に置く。


これらを踏まえると、次のようになる。

(前半は同じ)
|
P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。
|
P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。
|
P 雪は雨を学校に誘う。
|
E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。
|
P それを雨がかばう。
|
G 花と雨が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。
|
P 雪は花に本当のことを話す。でも、草平には本当のことを言えないでいる。
|
EG雪は学校を嫌がったが、草平が今期よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。
|
P 溺れた事件をきっかけに、雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。
花は事件と彼の死を重ね合わせて、大切なものを失うことに恐怖する。
|
P 雪と雨のケンカ。
|
F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。
|
P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。
|
P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。
|
E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。
|
P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。
|
G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。
|
L 草平は、その気持ちに応える。
|
P 雪は異変に気がつき、山に花を探しに。
|
G 雨は花を助ける。花は彼とのをだぶらせ、雨の成長を感じ取る。
|
P そこに雪が駆けつける。
|
F 雨は、森へと旅立とうとする。花はそれを止めようとする。
|
L 雨は、雪に花を託して旅立ち、咆哮。花は、その姿に雨の巣立ちを確信する。
|
P エピローグ

これで、ドライバーの関連性が確保され、ストーリーの強度が増した気がする。

2012年7月13日金曜日

iPadは2人用(笑)。

最近ひょんなことから、『新しいiPad』を使っている。わりと普及しつつあるiPadだが、私の周りではまだ購入するかどうか悩んでいる人が多い。その多くは理由として、

「5万円は高い」
「回線の契約?が煩わしい」

などの購入障壁を挙げる。しかし、よくよく話を聞いていくと、

「結局、iPadで何が出来るのか分からない」

というのが購入に踏み切れない理由のようだ。お察しの通り、数ヶ月前まで私もその一員だった。

結論から言えば、iPadは素晴らしい。しかし、それは私がそれを手にするまで想像したこともなかった意味での素晴らしさだ。

おそらく、iPadの所有者は「iPadで出来る事」を次のように挙げるだろう。

「ウェブサイトが見れる」
「メールをチェックできる」
「写真が撮れる」
「アプリが沢山ある」
・・・

しかし、そこに目新しさはない。それはスマートフォンで出来ることばかりだし、家にはパソコンがある。このような説明では、購入検討者がiPadにいまいち魅力を感じられないのもうなずける。
購入検討者が本当に知りたいのは、

「iPadにしかできないこと」

なのだから。

iPad発売当時、スティーブ・ジョブズはiPadのプレゼンテーションの中で、iPadが最適な環境は「リビング」だと言った。当時、それを見ていた私は『寝転がってインターネットが出来る』ぐらいにしか理解していなかった。しかし、今はその意味がよく分かる。

私たちは、パソコンや、携帯電話を見るとき、その「中身」にばかり気をとられているかもしれない。しかし、iPadが変えたのは、その「中身」ではなく、それを見る「環境」だ。

例えば、旅行代理店や、携帯ショップに行ったことがあるなら、そのとき資料がどのように提示されるかを思い出してほしい。きっと、机の上に無造作に広げられ、必要に応じて、あなたの前に差し出されるはずだ。
それは、垂直に立てられたディスプレイや、携帯画面では実現できないだろう。

iPadの特徴である、軽量性、平面性、美しいディスプレイ、そして機能的なカバーはすべて、それを見る「環境」へ向けられたものだ。

私たちはいつから、iPadが「1人用」だと錯覚していただろうか?

例えば、単に「写真が撮れる」という機能に着目すれば、iPadと携帯電話、コンパクトデジカメの間に差は無いだろう。しかし、そこには「1人用」か「2人用」かという決定的な差がある。

携帯電話やコンパクトデジカメに慣れた人は、「どうしてそんな大きなもので撮らなければならないのか?」と言うだろう。しかし、

「ねえ、こんな写真をとったよ!」

という気持ちを伝えたいとき、優れている媒体は一体どっちだろうか?

「2人用(多人数用)」という視点が入ったときはじめて、iPadが写真機であると同時に「アルバム」であることに気付かされる。

持ったり、回したり、揺れたり、角度をつけたり、あらゆる動きにiPadはフィットする。それは、もちろん「1人用」にも適しているだろう。しかし、ジョブズが「リビング」と言ったとき、彼の「リビング」には何人の人がいたのだろうか?

1人のときもあれば、家族がいることも、そして友人が訪れることもある。それが彼の言う「リビング」だったのではないかと思う。

だから、iPadが本領を発揮するのは、テーブル、ソファー、移動中、外出先など、その姿勢が固定されない場所、そして、それを2人以上で見る場合だ。それが「リビング」に最適という意味なのだ。

これを読んでいる皆さんはひょっとするとiPadに、文章や考えをまとめたり、やり残した仕事を外に持ち出すデバイスとしての期待をしているかもしれない。

しかし、その期待はいい意味で裏切られるだろう。あなたはiPadを持ったとき、あまりに多くの「見やすく、見せやすい」場面があることに気がつくだろう。

それが、iPadにしかできないことであり、iPadの魅力なのだ。

私たちは、パソコン、携帯電話を通じて、「1人用」の世界に慣らされてきた。しかし、私たちはそろそろその偏りから解放されてもよいだろう。
「2人用」が作るのは、より身近になった電子デバイスの時代だ。その先駆けがiPadであり、この後に続くであろうタブレット端末の世界なのだろう。

2012年5月8日火曜日

定量問題とその解決


2011年は、原発事故問題やTPP問題など、定量的な判断を伴う問題が注目を集めた年だった。放射線は、どこまでが安全なのか?TPPはいくら儲かるのか?このような問題は、その定量的な判断を抜きにしては答えを導くことができない。

ある主張、あるいはある問題の理解には定性的なものと定量的なものがある。

まず、ある論理的主張A→Zには、AからZを導く際の道順A→B→…→Zが必要である。
ざっくり言えば、これが定性的な関係にあたる。

数学では、論理展開は公理や定義とその組み合わせによって行われるので、その道順の真偽値は100%決まる。これを単調論理という。
しかし、日常的な論理(非単調論理)では、各主張X→Yの真偽値は一般に不明である。そこで、X→Yの真偽についての確率的判断が必要であり、それが定量的な関係にあたる。

例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは論理の鎖としては成り立つが、その確率的判断は信頼できず、論理的主張としては弱い。つまり、どのくらいの風が吹けば桶屋がいくら儲かるのか?という定量的な側面が語られなければ、本当に「風が吹けば桶屋が儲かる」のかは分からない。

このような、確からしさや量の問題を「定量問題」と呼ぶことにしたい。今回の興味は、この定量問題がどこから来るのか、そしてその解決法である。

さて話を進める前に、はっきりさせておきたいのは、これは文科系とか理科系とかの差にはほとんど関係がないということだ。

文科系だろうが、理科系だろうが、人は普段、定量的判断をしながら生活している。なぜなら、日用品、食料品、衣料品などの買い物をするには、その判断が必ず必要だからだ。良いけど高いものと、まあまあだけど安いものがあれば、当然どちらを買うか考える。
そこに文科系、理科系の違いはない。

つまり、普通の人には日常的な生活の中で、定量的判断が身についていると考えるべきだろう。

しかし、ではなぜ定量的判断が身についている人々の間で、原発事故問題やTPP問題が起こるのか。それは、おそらくそのような問題が普通の人々の持つ定量問題の「適用範囲」から外れているからである。

例えば、普通の人に、「こちらの服とあちらの服のどちらが良いですか」と言われたら、定量的に値段や生地、デザインからどちらかを選ぶことが出来るだろう。しかし、「TPP賛成ですか、反対ですか」と言われたら、「そもそもTPPって何?」とか「よくわからないけど反対です」としか答えようがない。

つまり、普通の人にとって、原発事故問題やTPP問題は、内容がめんどくさすぎる問題であって、定量問題などという捉え方をする対象に入っていないのだ。

ある問題が、適用範囲から外れてしまった場合、その問題への対応はおおよそ次のようなパターンがある。

①無視する
②誰かの意見にのっかる
③アンチになる
④情動的に判断する

また、これらの総体として衆愚政治が生まれる。これは、日本のような民主主義国家にとっては根本的な問題であり、これを解決するには、その問題を定量問題として一般の人の適用範囲に入れてやる必要がある。

そのための方法は、おおよそ次のようなものだ。

①データを用意する
②論点を整理する
③○○派に分解する
④○○派と××派を交流させる

まず、議論の土台としてデータが無ければ話にならない。(これは数値データだけでなく、文章なども含む。)データ無しに議論することは、大いなる無駄である。データが出た瞬間に、すべてひっくり返ってしまうからだ。必要なデータを出させるのは、株主や、政治家、あるいはハッカーの仕事である。

次に、論点をある程度整理する必要がある。これは、有志で行う。ある程度の大局観を持たなければ、何が問題で、どこが論点かは分からない。また、このとき○○派を定義する。

その後、全員を○○派に分解する。少なくとも、自分が何派に当たるのかが分かるように、チャートのようなものを作るのが望ましい。いい例えかは分からないが六星占術とか、動物占いのようなものだ。アイドルで誰が好きとか、いわゆる俺の嫁の選出も同じである。ここからは、全員が参加できる難度になる。

そして、最後に○○派同士を交流させる。これは、勧誘合戦といってもいい。その勧誘の過程で論点についての議論が行われる。ただし、ここには利害関係も含まれており、必ずしもディベート的な応酬だけが繰り広げられるわけではない。話合いが決裂すれば、それは戦争にならざるをえない。結果的に、ベクトルは新規○○派獲得や、教育へと向いていく。真に争点となるのは、そこである。

ある問題について、その有識者や関心のある人は①と②をやるのが望ましい。そのとき必ずしも、○○派であることを明言する必要は無い。それは普通の人に「誰かの意見に乗っかる」ことや「アンチになる」ことを促す行為だからだ。
そして、普通の人(有識者でもなく、関心もない人)は③を、さらにその中で暇な人は④をやると良い。

このようにして、めんどくさすぎる問題は、普通の人の定量問題の適用範囲に入る。特に、①②の役割は重要であり、定量問題を解決するには、それを担当する人の数が増えることがポイントとなる。

これらが、2chをはじめとしたネット上でうまくいけば、日本の風通しも少しはよくなるのではないだろうか。

2012年1月31日火曜日

100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない

今回は珍しく世間話(政治)。なんとなくこのブログに合わない気もするが、一応載せることにした。

---

「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」

1月28日に放送された「朝まで生テレビ」を見ていて思ったことがある。2012年の幕開けを福島で行い、その第2弾を注目のあつまる大阪で行う。しかも、渦中の橋本市長が出演というあたりに、田原氏の2012年への意気込みを感じる。

私はかねてから政治との距離感を掴めずにいた。そういったニュースや動画は見るものの、そこには一定の違和感がある。そこで展開される議論や内容自体は新鮮にうつるが、どうも熱が入らないのだ。

経済、福祉、税金など私たちがそこで扱われている問題の当事者であることは確かだ。しかし、そこに実感がわかない。もちろん日本国民なので投票権はあるが、その時々になんとなく候補者を選んでいるだけだし、税金の使い道がどうのと言っても、もともと収めている税金の額はたかがしれている。

ネット民とされる人々が利用する2チャンネルにはことあるごとにスレが立つが、そのレスにもあまり関心が無い。自分のことながら、なぜなのだろうかと普段から疑問に思っていた。

しかし、「朝まで生テレビ」を見ていて気がついたことがある。見た人はご存知のように、番組は終始橋本市長のペースで進んだ。それは、橋本市長が人間的に優れているとか、相手の論客がバカだとかそういうことではないと思う。単に橋本市長と論客では大阪への「腰の入れ方」が違うのである。単に両者が持ち出すデータの量をみてもその差は歴然としていた。

橋本市長は弁が立つ。しかし、それはおそらくタウンミーティングなり、部下との議論なりで積み重ねてきた結果だろう。大阪の問題を整理し、論点を洗い出し、解決策を考えている。逆に言えば、大阪以外のことを聞かれてもそんなに分かり易くは説明できないだろう。毎日、大阪のことを考えているから、大阪のことをあれだけ説明できるのだ。

橋本市長は「対案を示してください」とか「案は出していますから、問題があるなら言ってください」などと番組の中で繰り返した。日々、大阪について考え、沢山のスタッフと実務を行っている男に一体誰がそんなものを示せるというのだろうか。

大阪という都市を知らないわけではない。しかし、私たちが真面目に日々考えているのは、自分の「個人的な問題」あるいは「仕事上の問題」なのである。私たちにとって大事なのは、「個人的な問題」であって、自分の住んでいる街の行政体にだってあまり興味が無い。それは極論してしまえば、大阪について考えること、あるいは自分の住んでいる街について考えること、それは私の「仕事」ではないのである。

論客の先生方も、大阪で飯を食っているかというと微妙である。もちろん本などを出版されている方は反省する点があるだろう。とはいえ、批判本などは要するに批判することが仕事であって、大阪をよくしようとかそういう意識は無いように思う。先生方の興味はあくまで、自分の仕事の範囲の中であって、行政の長と組するほどの意識があるはずがない。大阪だけを特別視する時間も無ければ、労力もない。

2チャンネルの住人にしても、ツイッターでつぶやいている人にしてもそうだろう。誰が大阪の行政のことを考えて飯を食っているというのか。福島の人たちや、大阪の事業者、子供を学校に通わせる親などはかろうじて、仕事と関係があるだろう。元旦の福島の回にしても、住民の本気度はすさまじかった。しかし、それと仕事や生活が直接関係していない人の本音は「お金(税金)は払うから、よろしくやってくれ」ということではないだろうか。少なくとも私はそうだ。

無責任のように感じられるかもしれないが、それよりも「個人的な問題」や「仕事上の問題」が大事であって、それらを解決するからこそ、労働に付加価値が生まれGDPは上がることになる。ひいては税収アップにつながるのだ。

今回の放送で露呈したのは、「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」ということである。
演者の中で、本当に大阪の改革に興味があるのは橋本市長だけであった。田原氏にしても、その興味はジャーナリズムにある。別に大阪だけが特別なのではない。

そこで、私たちのとりうる立場は、少なくとも「複数の」興味のある者を見出すことであろう。本気で大阪の改革の矢面に立つのが橋本市長だけだから、独裁だのヒトラーだの言われてしまうのだ。国政にしても、増税に熱意を燃やす野田総理に「対案を示せ」と言われて出せないような論者では、話があらぬ方向にいってしまうのは当たり前である。

私たちには、私たちの「個人的な問題」や「仕事上の問題」がある。政治家や、ジャーナリスト、学者は「一緒に考えて下さい」というかもしれない。「それが日本のため、地域の為。最後はあなたが決めるんです」と。しかし、私たちは忙しい。「それで直接恩恵を受けるのはあなたではありませんか?」といいたくなる。私たちがもっと興味があるのは、「個人的な問題」や「仕事上の問題」でしかないのである。なぜなら、それは「私」が解決するほかにないからだ。「私」以外にそれを考えてくれる人はいない。

逆に言えば、私たちが積極的に政治に関わるには、それを生業とするしかない。どこで活動するか、どこで仕事するか、何を仕事とするか、その選択の中で行政体とのかかわりは生まれてくる。そこで初めて、政治が「個人的な問題」や「仕事上の問題」になる。そうしたときに初めて、勝負になるのだ。

もしそうできないなら、少なくとも2人以上の「興味のある論者」を対決させよう。これはプロレスと同じようなものだ。ビックカードは、ファンの関心を引かなければ実現しない。ファンはそれを楽しめば十分だし、ビックカードなら当事者同士も勉強になるだろう。

私たちは広域の問題には無関心だが、ビックカードを実現させる力は持っている。それこそが最大限に譲歩した民主主義ではないだろうか。

2011年12月21日水曜日

対称性による類推について

ある概念を説明する際、それと似た概念をもって説明することを類推(アナロジー)という。

あるものの構成要素の数は、単純に、1か2か3か4か・・・と分類されるが、それらの数の一致をもって何かを言うというのは危険である。

あるものが似ているからと言って、それらが同じ性質をもつとは限らない。
類推が成り立つのは、それらが結果的に同じ法則に従う場合だけだ。(例えば、同じ方程式に従うなど。)

上位概念は蓋然的ないくつかの要素から帰納的に仮定され、演繹的に検証される。そのため、ある「似ている」ものを見つけると、それらが他の面でも同じ性質を持つと考えたくなってしまうものであるが、実際にはそういえることは少ない。

「似ている」ものの中でも特に「構成要素の数」は極めてありふれており、出会う機会が多いだけに注意が必要である。

「構成要素の数」の対称性には例えば次のようなものがある。これらのものを即座に結び付けてしまうのは誤謬である。これらはその「構成要素の数」以上の関連性が無いかもしれない。

これらを見て、「関係がある!」と思ってしまった人は、よくよく考えてみよう。「何が違うか」を考えれば、おそらくそれらの間に同じとは言えない反例が見つかるはずだ。

(ちなみに以下には対称とは言えないものも含まれている。)


■2の対称性

・男と女
・裏と表
・自と他
・有と無
・真と偽
・右と左
・光と影
・実数と虚数
・正と負
・生と死
・始まりと終わり
・天国と地獄
・物質と反物質
・賢者と愚者

■3の対称性

・XYZ
・クォーク
・ぐー、ちょき、ぱー
・R、G、B
・金、銀、銅
・固体、液体、気体
・カラーテレビ、自動車、クーラー
・タンパク質、炭水化物、脂肪
・神、イエス、精霊
・神、悪魔、人間
・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ
・魏、呉、蜀
・陸、海、空

■4の対称性

・加法、減法、乗法、除法
・4次元空間(x,y,z,t)
・A、G、C、T (DNA)
・東、西、南、北
・前、後、左、右
・春、夏、秋、冬
・地、水、火、風
・起、承、転、結
・風、林、火、山
・生、老、病、死
・ハート、スペード、ダイヤ、クラブ

2011年12月13日火曜日

知るとは何か

知るということについて、少し考えてみよう。

釈迦は苦しみは無明(簡単に言うと知らないこと)によって生まれると言った。では知らないほうが良い事というのはあるだろうか?何かを知ろうとするモチベーションは何だろうか?どのようなものから知れば良いのだろうか?また、効率よく知るにはどうしたらよいのだろうか?ところで、知識とは何だろうか?逆に忘れるとはどういうことだろうか?

結局、知るということはどういうことなのだろうか。それらを以下で解説する。


■知れば知るほど良いのか?

知って損をするということはあるだろうか?損をすることが無ければ、知識は無条件に得るべしということになるが、経験的には損の仕方は次の2通りがありそうだ。

①気分を害する。
②他者にとって都合が悪くなる。

①は、気分の問題だ。恋人の恋愛遍歴や、ある美談の裏話、まずそうな食べ物の味など、本当に知って良かったか疑問が残ることはある。「知らないほうが幸せだった」「知って損した」という言い方に代表される。知識はある物事の判断基準になる以上、論理的には知らないより知っていたほうが良いということが言える。しかし、論理の世界を外れると一概にそうとは言えない。

②は、秘密にあたるものだ。「秘密を知ったからには生きては返さん」のように、秘密とされる事柄を知った場合に起こる。場合によっては圧力をかけられたりすることもあるだろう。より広く言えば、権力者にとって不利な状況になるような知識ということになる。ただし、必ずしも被害がでるとは限らず、直接の被害が出るかは程度問題である。

つまり、論理的に判断すべき範疇にあって、権力者の直接の秘密にあたるものでないものであれば、知っているのにこしたことは無い。

■「知らない」ことが「知る」モチベーションとなる

知ろうというモチベーションは「知らない」ということから生み出されるように思う。なぜなら、「知っている」ことを「知る」ことには意味が無いからだ。(経済の言葉で言えば、限界効用が0ということになる。)「知っている」ことには価値がなく、「知らない」ことだけに価値がある。だから「知らない」ことを「知りたい」と思うわけだ。

しかし、注意が必要なのは、実際の知るべきかどうかの価値判断は、「知らない」ことではなく、「知らないと思われる」ことに基づいてなされるという点だ。本は読んでみなければ、何が書いてあるかは分からないし、食べ物の味は食べてみないと分からない。つまり、「知っている」かどうかは知ってみるまで分からないのだ。

だから、本当は「知らない」から「知りたい」のではなく、「知らない」と思うから「知りたい」のである。

そこで、「知っている」と勘違いしていることを正しく知るには、「本当に知っているかどうか」を疑うことが重要になってくる。そのためには、「知っている」ということを01ではなく程度で考えると良い。具体的には

①名前を知っている。
②内容を聞いたことがある。
③要点を説明できる。

の3段階で考えればよいだろう。③までいけば、「知っている」とみなしても良い。


■知識の優先順位は複数ある

さて、デメリットの無い知識はあればあるだけ良いと考えられるが、情報の収集や知識の修得には時間がかかるため、時間に見合わないと思えることや、無駄と思えることもあるだろう。そこで、どのようなことから知っていくべきかという取捨選択をする必要がある。では、その判断基準は何だろう。

列挙してみると次のようになる。

①ゴールとの合致
②好みとの合致
③他者の評価との合致
④脱線
⑤無作為

①は、ゴール(目標)に関係ありそうな事柄を優先するやり方である。これには、ゴールの設定が必要である。

②は、好みを優先するものである。それは知って楽しいということである。これは重要なことであるが、内容が偏りやすいという欠点もある。

③は、名著と呼ばれているものだとか、売れている本ランキングだとか、好みやゴールではなく、他者の評価の高いものを優先するやり方である。これは情報にある程度の信頼が持てる。

④は、当初の目的でないものにシフトしていくやり方である。これは、たまたま何かを見つけて世界が広がる可能性がある。簡単に言えば脱線するということである。

⑤は、無作為に選ぶということである。これは、意味が無い。無作為に選んで、重要な情報にあたる可能性は低い。(例えば、すべてのウェブサイトからランダムに1つのページを開くことを想像してみればよい。)

ちなみにナレッジダイビングでは、①~④をうまく複合している。

■知れば知るほど速くなる

優先順位と別に大事になるのが、収集、修得にかかる時間だ。この絶対スピードが速ければ優先順位をそれほどシビアにすることなく、網羅的に知ることが出来る。このスピードには3つの要素がある。

①文字を認識する速さ
②事前知識の量
③理解する速さ

①は、単純に読む速さである。特に言語で記述された情報、知識についてはこれがクリティカルに効いてくる。これは練習次第で極めて速くなるとされる。(実際に極めて速く読める人が存在する。)

②は、書いてある語句の意味が分かるかどうかである。例えば、wikipediaのアインシュタインの項には「アルベルト・アインシュタインは、『ドイツ』生まれの『ユダヤ人』『理論物理学者』。」と書いてある。この時、「ドイツ」や「ユダヤ人」、「理論物理学者」という語句が何を意味するかを知らなければ、この文章は「アルベルト・アインシュタインは、『とある国』生まれの『とある人種の』『とある職業の人』。」と言っているのと変わらない。つまり、語句について「名前を知っている」レベルでは読んだとしても、読めたことにはならない。逆に言えば事前知識が多ければ多いほど、このような無駄が無くなり、単位時間当たりに実質的に読める量が増える。

③は、事柄を理解する速さである。語句の意味が分かったとしても、その文章全体が何を意味しているかを理解しなければ、その内容を知ったことにはならない。そのため、情報の意味を理解する速さが重要となる。理解する速さは、抽象思考の訓練によって高めることができる。

■知識はネットワークである

知る対象、特にここでは知識について述べる。

知識というものは、それだけで独立したものは存在せず、必ずネットワークになっている。ある知識について説明するには他のものを持ち出すしかないということを思い起こせば良いだろう。これはある知識についての定義のネットワークであり、仏教の言葉で言えば縁起である。

あることを知るということは、それに付随するネットワークを探索することに他ならない。この探索手法は大きく分けて2つに別れる。

①下位概念の参照
②芋づる

①は、下位概念(外延)を網羅するやり方である。例えば、犬の犬種一覧からすべての犬種を調べるなどいうような調べ方である。ある限られた範囲を網羅したい場合に向いている。ただし、「あ」のつくものなど、必ずしも適切とは言えない様な上位概念もある。そのようなものは、各下位概念間の関係性が少ないため、上位概念の深い理解につながるとは考えにくい。

②は、概念の抽象度に関係なく、定義のネットワークを参照していく方法である。例えば、犬にまつわる事柄(動物、食性、人間との関係など)から別の項目に移る。犬→ペット→癒し、犬→生物→DNAなど、色々な方向にすばやく移動できる。この方法はネットワークの全体像を把握するのに向いている。また、予期せぬ発見も生まれやすい。これは相互定義のネットワークであり、連想とは若干異なる。

②の方法はナレッジダイビングで用いられる。

■知識は階層性を持つ

また、知識は抽象度の順に並べ替えると階層構造になっている。一見多種多様に見える知識も、上位概念のゲシュタルトが出来れば、ある共通性を持ったまとまりに見える。上位概念について成り立つことは下位概念にも成り立つため、より上位にある知識について理解すると適用範囲が広く有用である。

このような、階層的知識を得る手段としては2つの方法がある。

①帰納的
②演繹的

①は、ある下位概念を網羅することにより、そこから共通の上位概念導き出すものである。
②は、ある上位概念を用いて、その下位概念となるべきものを説明するものである。

これらの方法は一般には複合しており、プロセスとしては、まずいくつかの概念から導き出される上位概念を仮定し、その上位概念が、下位となるべき概念をどの程度説明するかという形で用いられる。つまり、上位概念は帰納的に仮定され、演繹的に検証される。

このようなプロセスを経て、ある知識についての理解レベルは「内容に触れたことがある」から「要点を説明できる」に到る。一説によれば、「要点を説明できる」レベルに理解した事柄は無意識によるバックグラウンド処理が可能になり、問題解決を圧倒的に助けると言われている。

■抽象度の高いものは忘れない

知識は、無意識が重要ではないと判断したものについては長期記憶に移行されず忘れられる。この長期記憶への移行は主に睡眠中に行われていると言われている。

忘れるということについては次の2つの考え方がある。

①記憶が定着しなかった。
②思い出せないだけ。

①は、定着のプロセスに問題があり、②は思い出すプロセスに問題がある。これらを回避するためには、それぞれに対応して次の手段がある。

①重要度を上げる
②思い出す

①は、定着されるよう無意識にとっての重要度を上げる手段である。人間はどちらかというと成功よりも失敗から学ぶ方が優位になっている。成功した事柄よりも、失敗した事柄の方が生存に関係する可能性が高いからだ。そこで、わざと間違えるというのが手段としてありうる。間違えるために「説明しようと試みる」ことも有効と考えられる。

②は、思い出すことによって、神経回路を強化することである。何度も思い出していれば、記憶を引き出し易くなる。

ただし、そもそも忘れるという現象は極めてありふれており、そこに神経質になる必要はない。ある本を読んだ後にその文章すべてを暗誦できるかを考えてみれば、短期記憶はほとんどが失われる性質のものであることが分かる。

その点を踏まえると、知識を修得する際に重要なことは、その細部ではなく抽象的理解である。これはゲシュタルトの構築とも言われる。抽象的理解をすることによるメリットは次のようなものがある。

1つめは、単にその記述量が少ないということだ。抽象的理解は短い言葉で表すことができ、覚えやすい。2つめは、抽象度の高い概念は、常に刺激されるということである。これは忘却の防止につながる。抽象度の高い概念は、その下位概念に帰納的、演繹的に関連付けられているため、下位概念が刺激されると、同時に上位概念も刺激される。それによって、抽象的理解は常に利用可能なものとして保持される。このような2つの効果により、抽象的理解は覚え易く、忘れにくい性質がある。

■知るとは知識ネットワークのゲシュタルト化である

以上のことをまとめると、知るということは、ある知識についてのネットワークを階層的に理解(ゲシュタルト化)することだと言える。そして、その抽象度が高ければその知識はよく保持される。また、その前提知識(ゲシュタルトの量)が、更なる知識の修得スピードを左右するため、知れば知るほど知識の修得効率は向上する。