2025年3月11日火曜日

思考の一般論:不可観測領域および裂け目モデル

 思考の一般論(general theory of thought)は、思考の一般的形式についてそのモデルと方法を記述するものである。思考の一般論はアイデアがどこから来るのか、そしてその一般的方法について明らかにする。

通常の用法と異なる用語や強調点については太字で記してある。また、各節にはモデルに必要な記述とは別に補足としての説明を付与している(--)。


---

1.世界

1.1 世界は、3つの異なる領域、不可観測領域(unobservable domain)、可観測領域(observable domain)、物理領域(physical domain)で構成されている。

1.1.1 物理領域は、存在(existence)が物理的実体(physical substance)として存在する領域である。

1.1.2 可観測領域は、存在がシンボル(symbol)として存在する領域である。

1.1.3 不可観測領域は、存在が観測できない存在(unobservable)として存在する領域である。

1.1.4 これらの3つの領域は、物理領域、可観測領域、不可観測領域の順に、滑らかにつながっている。

---

世界の構造は、超情報場仮説における情報空間の概念に準ずる。超情報場仮説においては、可観測領域と不可観測領域の区別はなく、3つの領域を合わせて情報空間と呼ばれる(物理空間を底面とし抽象度の軸を足した空間である)。

また、ここでいうシンボルは、文字や記号だけではなく、事象や感覚など、知覚されるすべてのものを指す。


2.結合場と裂け目モデル

2.1 不可観測領域には、領域内の異なる場所を相互につなぐ結合場(connecting field)が存在する。

2.2 不可観測領域にある一定以上の場が作用すると、裂け目(crack)が生じる。

2.3 裂け目は、可観測領域においてシンボルとして観測される。

2.4 これを裂け目モデル(crack model)と呼ぶ。

2.5 裂け目は、一般に位置と形、複数の向き先端方向への脆弱性を持ち、相互に接続しうる

--

結合場の作用は、仏教でいう縁起に対応する。作用は裂け目の縁(ふち)とその外側で起こり、外側についてはそれを見ることは出来ない。縁起の思想に基づけば、全ての領域は動的かつ一様ではない。

また、哲学的観点からいえば、結合場は存在可能性や解釈可能性に対応する。

裂け目としてのシンボルの一般的性質は「関係」でもある。


3.情報的身体

3.1 私たちの情報的身体(informational body)は、世界の3つの領域にまたがって連続的に存在する。

3.1.1 情報的身体全体の状態を動的背景(live background)と呼ぶ。

3.1.2 動的背景のうち、不可観測領域に属する領域を一般性(generality)と呼ぶ。

3.1.3 情報的身体は物理領域に根ざし、裂け目を脈として、不可観測領域に向かって伸びている。

--

超情報場仮説に従えば、脳と心は1つのものであり、それを扱う抽象度の違いによって呼び名が異なるに過ぎない。情報的身体も同様に、世界の3つの領域にまたがって存在している。

一般性は、仏教でいう仏性に対応する。


4.空白選択性

4.1 空白選択性(blank selectivity)とは、私たちが生得的に持つ、空白(blank)に対して何かを選択する能力である。

4.1.1 この際に選択されるものは、既知の記憶や知識だけでなく、未知のシンボルも含まれる。

4.1.2 一般に、空白選択性は動的背景と結合場の関数である。

→ blank selectivity(live background, connecting field)

4.1.3 空白選択性が動的背景だけでなく結合場の関数であることは、私たちが未知のものを思いつきうることや、その選択が私という個人(individual)の中で閉じているわけではないことを表している。

--

私たちは何かを思いつく前に、それが何であるかを知ることはできない。その現象は、「私たちの状態」と「知りえない何か」の関数として見ることができる。


5.思考の有限性と持続性

5.1 思考(thought)は、情報的身体の活動の一部であり、空白選択性を含む動的なプロセスである。

5.1.1 思考には、有限性(finiteness)と持続性(durability)がある。

5.2.1 思考において、同時に保持できるシンボルの数は有限であり、実際的には数個程度である。

5.2.2 動的背景のうち、ある持続時間(duration)の間、シンボルを保持する仮想的な領域をインベントリ(inventory)と呼ぶ。

5.2.3 インベントリに保持されたシンボルに対する保持力(holding force)は、時間の経過とともに減少する。

5.3.1 ある思考の持続時間は、実際的には有限である。

5.3.2 動的背景のうち、思考の持続性の要因となる概念的な物質を思考性(thoughtfulness)と呼ぶ。

5.3.3 思考性は概念的な物質だが、物理領域においては物質的背景を持つため、生成可能な思考性の量には限りがある。

5.3.4 思考性の濃度(concentration)は、特定の過程により増大し、時間とともに減少する。

5.3.5 思考性は、情報的身体の物理領域、可観測領域、および不可観測領域それぞれにおける力場(force field)として作用する。

5.3.6 この場合、裂け目を引き起こすのは、結合場と、思考性による力場である。一般的に言えば、それらは重なり合うまたは協調する。

--

短期記憶の研究よれば、インベントリが短期間保持できるシンボルの数は4±1程度と考えられる。ただし、インベントリは仮想的な領域であり、実際の「数」はもっと多いともいえる。

思考の持続時間については、その強度にもよるが、プライミングといったシンボル生成に関わる弱いものも含めれば、数秒から数週間程度と考えられる。ただし、思考と記憶の明確な線引きは難しい。


6.シンボルの生成確率

6.1 一般に、思考に伴うシンボルの生成確率(probability of symbol generation)はインベントリ、思考性、一般性、結合場の関数である。

→ probability of symbol generation(inventory、thoughtfulness、generality、connecting field)

6.1.1 これは空白選択性の具体的な表現である。

6.1.2 パラメータのうち、不可観測領域に属する一般性および結合場は制御可能ではない

6.1.3 一方で、可観測領域に属するインベントリおよび思考性は制御可能である。

6.1.4 インベントリは保持力を伴うアクティブな裂け目の集合として、思考性は可観測領域でのインベントリの保持力および、裂け目周辺の不可観測領域に作用する力場として働く。

6.1.5 これらの相互的な位置関係により、新たな裂け目の生成範囲はゆるやかに限定される

--

生成確率の関数に一般性や結合場が含まれているのは、裂け目が実際に発生する領域は不可観測領域と情報的身体の共通部分であるためである。シンボルの生成確率関数は、空白選択性における動的背景が、インベントリ、思考性、一般性によって代表された形になっている。


7.生成的過程

7.1 生成的過程(generative process)とは、無意識(the unconscious)による要求(request)を物理領域で実行(proceed)する過程である。

7.2 一般に、生成的過程では思考性が増加する

7.3 特に、空白選択性によるシンボルの生成は、生成的過程のひとつである。

7.4 生成的過程は、意識(consciousness)の介入によって中断されうる

7.5 無意識および意識と物理動作を結ぶ経路の間には、相互抑制的な介入路があり、両者は互いにその物理動作を中断させることができる。

7.6 生成的過程を効果的に使うには、物理動作に対しての意識の介入を抑える必要がある。

7.7 これは他者による介入も同様である。

--

意識とは、情報的身体の可観測領域において気がついている領域を指す。これは特に思考性の濃度が比較的高い範囲であると考えられる。

また、無意識はそれ以外の領域を指す。無意識が、物理領域や不可観測領域を含むのかは文脈によるが、広義には情報的身体全体に広がっていると考えられる。


8.操作的過程

8.1 操作的過程(operational process)とは、生成的過程によって生成されたシンボルを意識的にインベントリに再配置する過程である。

8.1.1 操作的過程は、特定のシンボルに対する保持力を高める

8.2 再配置されるシンボルは生成されたシンボル群の中から、感覚量(sense)によって選ばれる。

8.3 インベントリの数は有限であるから、候補となるシンボル群は、記憶領域または物理領域に外部化されていなければならない。

8.4 操作的過程は生成的過程に対して十分少ない

8.5 インベントリの変動により、シンボルの生成確率は変動する。

--

あるシンボルに対してどのような感覚を持つかは無意識によって決まる。思考における意識の役割は、あるシンボルに対して生じる感覚を認識し、そのシンボルに再注目することである。その点において、操作的過程は内省意識的過程といえる。


9.未知の整合的かつ統合的な構造に対する思考

9.1 思考の対象の中で、未知の整合的かつ統合的な構造を持つと想定される対象については、設定点(setting point)および感覚量としてのサイン(sense of sign)が有効である。

9.2.1 設定点とは、「~について考える(think about)」の「~について(about)」と同じ機能を持つシンボルである。

9.2.2 設定点は、思考の対象となる不可観測領域の比較的広い地域(region)を指し示す。

9.3.1 また、サイン(sign)とは、未知かつ重要な領域(area)を指し示すシンボルである。

9.3.2 サインが持つ未知性および重要性の感覚量は、シンボルと設定点の関数で表される。

→ sense of sign(symbol, setting point)

9.3.3 この関数は戻り値として感覚量としての未知性(unknownness)および重要性(importance)を返す。

9.3.4 未知性は、シンボルが設定点の対象地域に近い未知の領域の方向を指していることを示している。

9.3.5 重要性は、シンボルが設定点の対象地域に対し直接的または間接的に接続するか、裂け目が作る経路の通過点(waypoint)となる可能性の高さを示している。

9.3.6 一般に、あるシンボルに対して感覚量としてのサインの関数を適用した場合、戻り値は何ももたないか、未知性または重要性のいずれか、またはその両方を持つ。

9.4 未知の整合的かつ統合的な構造を持つと想定される対象に対しては、操作的過程において、未知性または重要性のうち少なくとも1つの感覚量を持つシンボルをインベントリに再配置することで、対象地域への裂け目の拡大を促すことができる。

--

ある整合的かつ統合的な構造は、可観測領域と不可観測領域を大域的につなぐ裂け目群として存在することになる。設定点および感覚量としてのサインは、その構造が想定される方向への裂け目を利用する。


10.思考の一般的形式

10.1 以上のモデルに基づき、思考の一般的形式は次のようになる。


前提

10.1.1 思考性の生成余力を確保するために、十分な休息をとる。


思考の一般的形式

(1) 設定点の設定(何について考えるかに相当するシンボルを保持する)

(2) 空白選択性に基づく生成的過程により、シンボルを生成し物理領域に外部化する。

(3) シンボルの生成と外部化を繰り返す。回数に制限はない。(シンボルおよび思考性の増加)

(4) 操作的過程により、感覚量を元にインベントリを更新する。

(5) 再びシンボルの生成を行う(2に戻る)。

(6) 目的となるシンボルが生成されるか、思考性が枯渇して維持できなくなった時点で終了する。


補足

10.1.2 実際的には、思考時間は思考性の限界によって決まるため、最高強度の思考を行う場合には、思考時間は数十分から~2時間程度が適切だと思われる。


11.裂け目モデルの適用範囲と制約

11.1 裂け目モデルによる思考の一般論は、個別の問題には次のように適用される。

(1) 生成的過程は、すべての個別の問題に対して共通して適用できる。

(2) 操作的過程については、個別の問題ごとに異なる設定点を適用することができる。

(3) 未知の整合的かつ統合的な構造を持つ対象に対しては、感覚量としてのサインを用いることができる。

(4) そのような構造を持たない対象には、サイン以外の感覚量を用いる必要がある。

(5) ある真実に関する構造は整合的かつ統合的であり、1~3の一般論を適用できる。

(6) ある物語に関する構造は整合的かつ統合的であり、1~3の一般論を適用できる。

--

最後に物語の作成に関する問題を挙げているのは、それが思考の一般論を研究するための個人的な動機であったからである。その意味で、物語の作成に関わる思考の一般化は完了した。


---






2021年9月22日水曜日

創作理論の根幹を成す空白選択性とその方法について

創作理論における空白選択性、世界跳躍、sign、白紙法などについてある程度まとまったので投稿する。


1.空白選択性

人間には、空白に対して何かを選択する能力があります。

これを空白選択性と呼ぶことにします。


空白選択性は、一般にlive backgroundと情報統合性向場の関数です。

空白とは、前提条件を持たない埋めることが可能な領域、

live backgroundとは、私の今ここにおける全状態、

情報統合性向場とは、情報空間における統合的性質を持つ場を指します。

空白選択性は、一般にアイデアがどこから来るのかを説明します。


人があるアイデアを思いつくとき、つまりこの世界にある情報が出現するとき、それは私の全状態に依存します。

全状態とは文字通り全てであり、意識に上っているもの、無意識にあるもの、記憶、全ての身体的状態を指します。

人間の表現行為には、言葉や図形、身体的動きなど様々なものがあります。

これらの表層表現は、常に私の全状態とリンクした状態で存在しています。

強調の意味も込めて、私の全状態をlive backgroundと呼ぶことにします。

一言で言えば、空白選択性は、live backgroundに依存します。


空白選択性によって、アイデアが生み出されるとき、それは情報統合性向場ともリンクしています。

情報空間には「統合は生じる」という性質があり、その統合的性質が選択に有意味性を与えるためです。

私たちは常に情報統合性向場とリンクしていますが、その結びつきの強さはlive backgroundに依存します。

私たちは思考を通してlive backgroundを変化させることで、情報統合性向場とリンクし、その統合的性質の影響を受けています。


関数として表すなら、空白選択性は、

空白選択性(live background, 情報統合性向場)

という関数として表されます。

これが人間がアイデアを生み出すことができるということの根本的な説明です。


2.世界跳躍と時間

「統合は起こる」という前提に立つと、情報空間には統合という1つの大きな流れがあります。

この情報空間における統合方向を「時間」と呼ぶことは可能です。

創作理論において、時間という概念はおそらく必要ありません。

しかし、言語の中には時間的な語があり、それらを扱うために時間を定義しておくのは悪くないことです。


ある世界は、私たちの統合能力によって保持された世界、記憶された世界です。

まだない世界は、統合されていない、記憶されていない世界です。

空白選択性は、ある世界の要素だけでなく、まだない世界の要素を選び出すことがあります。

このような、まだない世界の要素をsignと呼んでいます。


signはある世界とまだない世界をつなぐ架け橋であり、標識としてまだない世界の方向を指し示します。

私たちはそのようなsignを手がかりに、まだない世界を統合することができます。

このような、signによってある世界からまだない世界が統合されることを世界跳躍と呼ぶことにします。

時間的に言えば、signは断絶された過去と未来をつなぎます。

創作においても、signを見つけることで、ある世界からまだない世界への跳躍を行うことができます。


3.signと感覚量

signは、未知性かつ重要性という感覚で捉えることができます。

signは、まだない世界の要素ですから、統合された意味を持ちません。

また、まだない世界の方向を示していますから、示しているという志向性は受け取ることができます。

その結果、「よく分からないが、重要そうな感じがする」という感覚量となります。


私たちは、思いつく前に思いつく内容を知ることはできません。

しかし、あることが重要かもしれないということは知ることができます。

例えば、森の入り口に立って、森の奥底に何があるかを知ることはできません。

ですが、森が「深そう」といった感覚は、森に入る前に持つことができます。

signに伴う感覚量は、こういった感覚量と同型です。


空白選択性によって生じる選択の中から、signを見つけ出すにはこの感覚量を探します。


4.一般的sign発見の手順

signは、一般に空白選択の列によって生じます。

空白選択とは、空白選択性により空白に何かを選択することを指します。

空白選択によって生じる要素は、一般にsign、memory、knowledgeなどがあります。

signは、一般にそれらの列(空白選択列)の中から発見されます。


一般的なsign発見の手順は次の通りです。

①空白選択を行う

②選択されたものがsignであれば終了、signでなければ①へ戻る。何も選択されない場合は③へ

③空白選択列を俯瞰し「何が重要であるのか」を捉えたのち、①に戻る


5.具体的sign発見の手順、白紙法

最後に、空白選択を白紙の紙で行う白紙法について述べます。

白紙法は白紙の紙を用いて空白選択を行う方法で非常に基本的な方法です。

白紙法に必要なものは、白紙の紙と筆記具です。


①空白選択の始まり

白紙の紙を用意したら、まずタイトル的なものをつけましょう。何でも良いですが、作品のタイトル、○○とは何か、○○について、などがおすすめです。

タイトル的なものはなくてもよいのですが、live backgroundに無意識的な志向性を与えてくれます。


②空白選択を行う

白紙の紙の空白に、何か書き込んでみましょう。最初は、今考えている事柄についてのキーワードだったり、記憶よりのものが選ばれると思います。書いている本人でも意味が判らないこともあります。

空白選択は無意識が行うので、選択に意味を求める必要はありません。選択されたものをそのまま書きましょう。


③空白選択を続ける

何か書き込んだら、別の空白に何かを書き込んでみましょう。紙は二次元的な広がりがあるので、下でも横でも好きなところでかまいません。何となくこの辺に書きたいということも無意識が選択するので、それに任せます。

空白に書き込むたびに、live backgroundは変化していき、また別の言葉や記号が選ばれます。


④書き込んだものを俯瞰する

ある程度、書き込みが溜まってきたら、これらの書き込みの中で「何が重要なのか」という視点で眺めてみてください。

途中で選択が停止してしまった場合も同様です。

書き込みの俯瞰タイムは、live backgroundをより関心のある方向へ整えます。

何が重要なのかが無意識に修正されると、空白選択性が働き、より関連性の高い要素が選ばれるようになります。


⑤signの発見

空白選択によって、「よく分からないが、重要そうな感じがする」要素が選択されれば、それがsignです。

signは、すでにあるイメージの中にはない要素ですので、感覚としてはすぐに分かります。

signが見つかったら、それをよく意識してください。


⑥まだない世界の発見

signを発見したら、それを踏まえた上で、空白選択を続けてみましょう。

signを発見したことで、今まで考えもしなかったことが選択されて出てくると思います。

これがlive backgdoundと情報統合性向場がリンクした状態です。

感覚としても感情としても、よりはっきりとしたアイデアが統合されると思います。

新しいアイデアかどうかは、今までに考えたことがあるかどうかという観点からも確認できます。

まだない世界が統合された瞬間です。


⑦終了

ある程度満足したら終了しましょう。必ずsignを見つけなくてもかまいません。

統合されたアイデアは記憶されるので特にまとめる必要はありません。

まとめておきたいことがある場合は、別にまとめると良いでしょう。

ただし、時間が経つと書いたものとlive backgroundとのリンクは切れた状態になります。

メモは単なる記録で、次回のセッションには引き継げないので注意してください。

Every time, from scratch.(いつでも、白紙から)です。


⑧無理そうなとき

どうしても集中できない日などもありますので、空白選択に抵抗を感じた場合は、無理にやらない方がよいです。空白選択は無意識の方法論ですから、無意識の抵抗にあえばうまくいくことはありません。そういった感覚は経験的に分かるようになると思います。


2014年3月18日火曜日

言葉とは何か?/言葉と創造性について

言葉は行為であって記号ではない。

言葉の本質は行為にあり、それは言葉を書くことに他ならない。
書くことは、概念を“今ここ”に結びつけることであり、記号を記すことではない。

我々は書かれた文字ではなく、書くという行為に目を向けなければならない。

言葉の表現としての記号は不変だが、“今ここ”という瞬間は不変ではない。
“今ここ”という瞬間は、常に忘却という波に流されている。

創造とは、今ここに結びつけられた概念が新しい概念への道筋となることである。

その点において、言葉を書くことと、言葉を読むことは本質的に異なる。
前者は創造を伴うが、後者は創造を伴わない。

読むこと、思い出すこと、それらは“今ここ”を束縛する。
読むことは美しい。しかし、それは創造的ではない。

創造は書くことの中にある。それはいつも白紙から始まる。

創造の前に、鞄から何かを取り出すことは害である。
人は重要でないものを忘れる。それが我々を白紙にする。

我々は白紙の上に書く言葉を選ぶ。それは重要さに基づく選択であり、機械にはなしえないことである。

Every time, from scratch.(いつでも、白紙から)

言葉という行為は我々をもっと自由にする。

2013年7月21日日曜日

【ストーリー解析】「風立ちぬ」

2013/7/20に公開されたアニメ映画「風立ちぬ」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人はぜひ観ましょう。



■スタッフ
監督・脚本・原作 - 宮崎駿
作画監督 - 高坂希太郎
美術監督 - 武重洋二
音楽 - 久石譲
制作 - 星野康二 スタジオジブリ
配給 - 東宝
原作掲載 - 月刊モデルグラフィックス

監督はもちろん宮崎駿。2008年の「崖の上のポニョ」以来で、上映時間は126分。実在の航空技術者堀越二郎や、堀辰雄の小説『風立ちぬ』をベースとしつつも、映画作品としての本作のストーリーは大部分が宮崎駿の手によるものである。

■声優
堀越二郎 - 庵野秀明
里見菜穂子(さとみ なおこ) - 瀧本美織
本庄 - 西島秀俊
黒川 - 西村雅彦
黒川夫人 - 大竹しのぶ
カストルプ - スティーブン・アルパート
カプローニ - 野村萬斎

声優で特筆すべきはもちろん庵野秀明。個人的にはかなりマッチしていたのではないかと思う。イケメン声でないところに好感が持てる。また、ヒロイン役の瀧本美織には惚れざるをえない。黒川役の西村雅彦もいい味を出していた。

■映像・音響
SEが良い感じだった。なんと人の声で表現するという試みのようだ。SEに存在感があり、航空機の臨場感を高めている。
一方で、映像については、アリエッティやコクリコ坂と同じで、ぼてっとしてしまらない感じ。少なくとも、映像美で魅せる作品ではない。ただカットやコンテの美しさはさすがといったところ。

■総評
およそ宮崎駿にしか描けないであろう現代アニメ映画の特異点である。着眼点が現代の日常とは大きく異なっており、その特異性だけで名作として数えられることは間違いない。全体を貫くのは忠実さや健気さ、悲哀といった美意識であり、それによって何か良くわからない心の内を掴まれた気分になる。
しかしながらストーリー展開は王道かつテクニカルで心地よい。

この映画は観客を特定のイデオロギーに扇動することも、娯楽に酔わせることも無い。ただ実直にストーリーは進行し、アニメを観ようとする(あるいは娯楽を求めようとする)者に対して、実直に生きることを薦めているのではないかとさえ思える。この作品は、生きることそのものではなく、「われわれが」生きることそのものであるということを証明したのかもしれない。


■ドライバー

本作のメインドライバーは次の2つ。

①二郎と菜穂子の愛と別れ(L-L-F-L-F-(L))
②二郎の美しい航空機を作りたいという夢の実現(L-F-F-L)

また、サブドライバーに

③関東大震災で菜穂子とキヌを助ける。(E-G)
④カプローニ氏との夢での出会い(P)
⑤本庄との友情(L-L)
⑥ドイツ訪問(P)
⑦カストルプとの出会い(P)

などがある。本作のストーリーの根幹は、①と②およびその接合方法にある。

まず、もっとも観客の目を引きつけるのは、①の「二郎と菜穂子の愛と別れ」である。これは、分かりやすい悲劇であり、結核という病魔との闘いの中で菜穂子の健気さが何倍にも強調される展開となっている。
また、②の「失敗を繰り返しながら成功へ向かう航空機設計技師としてのストーリー」も極めて分かりやすい。

だが、本作がすごいのはそれだけではない。本作ではそれらのストーリーを単に並行させるだけではなく、2つの間に明確な優越をつける工夫がなされている。それは②のストーリーのクライマックスにあたる飛行テストのシーンで成されている。

このシーンは、単純に考えれば、二郎が成功を喜んで終り、あるいは駆けつけた菜穂子も一緒に喜んで終りという終わり方も十分に可能である。というよりそれが普通である。しかし、実際には、二郎は喜ぶことなく、菜穂子との別れを超越的に悟るという演出がなされている。これは、二郎にとって「航空機の成功」は、「菜穂子への愛」には遠く及ばないということを示している。これによりドライバーの優劣は完全に決着し、最大のドライバーは①であることが分かる。そして、それがラストシーンへとつながっていく。
ラストシーンでの、菜穂子の「生きて」というメッセージと二郎の「ありがとう」というメッセージは極めてポジティブであり、これによって本作はハッピーエンドという最高の状態で終わる。
本来ハッピーエンドであるはずの夢の実現を空振りさせ、尚且つ、本来バッドエンドである恋人との別れをハッピーエンドで終わらせるというのは何とも見事なストーリー展開である。

唯一残念なのはPドライバーが多くて中盤のストーリー強度が低いことぐらいか。


■ストーリー詳細

覚えている限りのおおよそのストーリーは次のようなもの。大分省略している。

P 堀越二郎少年は航空機の夢を見る。

L 二郎は夢の中で、航空機設計技師のカプローニ氏と出会い、飛行機の設計士になることを決意する。

P 成長した二郎は、設計技師になるための技術を学ぶ為に機関車で上京する。

L 二郎は車中で、菜穂子と付き添いのキヌと出会う。

E 関東大震災により、機関車は急停車し、乗客は機関車から逃げ出していく。

G 二郎も機関車を後にしようとするが、菜穂子とキヌが立往生しているのが目に入る。

G 二郎は、骨折しているキヌをおぶって菜穂子と避難する。(添え木として計算尺を使う。)

G 二郎は2人を無事に家族に引き渡した後、名を告げずその場を去る。

P しばらくして、二郎は友人の本庄と共に設計技師学校で生活を送る。

LF 菜穂子から二郎宛に計算尺とお礼の手紙が届くが、再会は果たせない。

P その後、二郎と本庄は名古屋の航空機メーカーに就職する。上司の黒川、服部らと出会う。

LF 入社してはじめて関わった航空機のテスト飛行が行われたが、航空機は墜落する。

P 二郎と本庄を含むメーカーの社員らは、技術契約を結んだドイツの航空機メーカーを訪れ、その技術力の高さを目の当たりにする。

L 出張後、二郎が新しい航空機の設計チーフに抜擢される。

F 初設計の機体はテスト飛行でまたも空中分解、墜落してしまう。

P 二郎は休暇でホテルを訪れる。

L そこで二郎は菜穂子と再会する。

P 二郎はカストルプと出会う。

LE 二郎は菜穂子に交際を申し込むが、菜穂子は結核を患っていることが明かされる。

LF 二郎はすぐさま菜穂子に結婚を申し込むが、菜穂子は結核が治ることを結婚の条件にする。

L 会社に戻った二郎は新しい小型飛行機の設計を任される。

F 製作は順調に進んでいたが、菜穂子が吐血したとの電報が届く。

L 二郎は急いで東京の菜穂子の家に向かい再会する。

G 菜穂子は結核を治すため高原病院に入ることを決意する。

L 航空機の製作は順調に進む。

LE 菜穂子は気持ちに耐えられなくなり、病院を抜けて二郎の元へやってくる。

L たとえ病気が重くとも一緒にいるべきだと決意した二郎と菜穂子は黒川の家で祝言を挙げる。

L 二郎と菜穂子はひと時の幸せを掴む。

L 航空機が完成し、二郎は飛行場へ向かう。

F 菜穂子は二郎を見送った後、自身の病状を悟り、置手紙を置いて高原病院へ戻る。

L 二郎の設計した航空機は高い飛行性能を示し、飛行テストは大成功となる。

F しかし、飛行テストとは裏腹に、二郎は菜穂子との別れを直感的に悟る。

P それからしばらく経ち、夢の中で二郎はカプローニ氏に再会する。

L その夢の中に菜穂子が現れ、二郎に「生きて」とメッセージを送る。二郎は「ありがとう」と返事をする。

(おわり)


■いくつかの問題点

①本庄の役割は?
本庄は出張る割にストーリー上の役割が無い。

②ドイツ訪問がただの説明になっている
ドイツ訪問はストーリー上の役割が無くただのPドライバー。

③カプローニさん出すぎです。
はじめと真ん中、終りの3回で十分?

④カストルプとはいったい
スパイだったのか何だったのか。また二郎が秘密警察に追われる理由も特になしってどうなの。

■改善案

Pドライバーは少し減らしても良いでしょう。

2013年7月5日金曜日

「かわいい」という危険思想

世の中には「かわいい」ものがあふれている。萌え文化の隆盛、ゆるキャラの勃興、アイドルグループの乱立、犬猫動画の拡散、その背後には「かわいい」という共通の価値観が存在する。多くの人が「かわいさ」を肯定し、それが心に安らぎを与えてくれるものだと好意的に解釈している。

しかしながら、私はその「かわいさ」に対して危険を感じずにはいられない。われわれは、「かわいい」に支配されているのかもしれない。

今回は「かわいい」とは何か、そしてその危険性について考えてみようと思う。


■かわいいとは何か?

そもそもかわいいとは何だろうか。その性質を分類してみると、以下のような3つの性質があることが分かる。

①女性的である
②小さい
③幼児性がある

これらの性質のうち1つでも満たしていればかわいいと呼ぶことができるようだ。

1つ目は、女性的であることである。男性にとってはセックスアピールがあるといっても良い。

男性から見る場合、かわいいは萌え系やアイドルなどに当てはまる。ただし、露骨なエロではなく、それを期待させるものである。これは、脳のプライミングの結果である。かわいい=エロではないが、それと隣接する領域であることは間違いない。

一方で、女性から見る場合は、性的であることではなく、女性らしさとほぼ同義である。女性らしさを想起させる場合には全てかわいいと評されるようだ。

2つ目は、小さいことである。これは単純な大きさのことである。同じ属性を持つもので、大きさが違う場合、小さいものの方がよりかわいいと判断される。例えば、キャベツとメキャベツはメキャベツの方がかわいい。ただし、小さければ小さいほどかわいいとは言えない。

どれが一番かわいい?

3つ目は、幼児性があることである。赤ちゃんや、幼児などがこれにあたる。また、年齢的なものでなく、幼児的な性質でもかまわない。例えば、無邪気、おっちょこちょい、甘えん坊、恥ずかしがり屋などはかわいいとされる。

これら3つを合わせて考えてみると、かわいいとは基本的には「保護の対象」に向けられる感情で、男性の場合「生殖の対象」でもありうるといえる。だとすれば、かわいいは種の保存と関係しており、人間にとってかなり普遍的な感情だと言えるだろう。


■かわいいの何が危険か

かわいいの危険性には、2つの側面がある。

1つ目は、かわいいの対象が本来の種の保存と関係のないものに拡大しているということである。2次元キャラも、アイドルも、ゆるキャラも、犬猫も人間が本来必要としているものではない。これらは、人間が遺伝的に持つ「かわいさ探知機」をいたずらに刺激しているものかもしれない。われわれは、かわいさに直面したときに、それが自身の何を刺激しているのかを冷静に分析する必要がある。

問題は、これらが本来の保護すべき対象、パートナーや乳児、幼児を越える可能性があることである。もし、かわいいという基準に従うことによって、本来保護すべき対象が除外されるなら、それは本末転倒と言わざるをえない。極論すれば、アフリカの飢えてる子供と二次元キャラのどちらがかわいいかという問題である。

現代では、かわいいは本来の役割を失った「娯楽」にすぎない。それを忘れたとき、かわいいは非常に危険な思想である。この場合、かわいいから保護するのではなく、保護する為にかわいいという感情が備わっていると解釈すべきだろう。

2つ目は、かわいいによる文化の破壊である。もし、かわいさが種の保存と関係しているなら、その感情はかなり本質的である。その場合、他の抽象的な概念よりも優先される可能性が高い。例えば、かっこいいという概念は、かわいいに比べ弱い。かわいいは本質的だが、かっこいいは遺伝子レベルで本質的とは思えないからである。人間には、美意識や、尊敬、誇り、克己心など、様々な感情があるが、それらを理解するにはある程度の訓練が必要だ。子供の感情の発達過程を見れば、これらの概念がかわいいよりも後に獲得されることは明らかだろう。

かわいいは、単純で強力だ。しかし、それは世界の原始的一側面にすぎない。かわいいは重要だが、すべてではない。われわれを取り巻く世界は、もっと多様で高度な関係性がある。それをわれわれは文化と呼ぶのである。かわいいによってコードされたものばかりを追い求める社会は異常である。かわいさに関係付けられることは悪いことではないが、そこには奥行きが必要である。
もし、その奥行きが不要というのであれば、それは文化に対しては破壊的である。


■かわいいの深化?

現代をかわいい探求時代と言うことも出来るかもしれない。ツンデレ、ヤンデレ、クーデレ、……、近年命名された概念は少なくない。「あざとい」という言葉も一昔前には聞かなかった。また、ファッション業界の推進により、化粧や服装などのバリエーションも拡大している。
しかし、キャラクターデザインの変化や、一昔前のルーズソックスの衰退ぶりをみてみると、「かわいい」の対象は普遍ではなく、モデルチェンジによって駆動されているようだ。

どうも、子供がかわいいや、犬猫がかわいいは普遍的な概念のようだが、女性的なかわいさは作られたもののようである。そう考えると、現代のかわいさのバリエーションの増加は、単なる情報化社会の流れに沿っているだけだろう。簡単に言えば、モデルチェンジのスピードが速くなっただけのことである。

ツンデレのように概念が確立されるということはあるだろう。しかし、その中で普遍的なものはやはり、小さいものと幼児性のあるものだろう。そういう意味では、多くのかわいいは流行の産物である。流行を流行と知って追いかけることは娯楽だが、それを普遍的価値だと勘違いすることには弊害がある。それが非進歩的なノスタルジーに変わることは明白だからである。

作られたかわいいは古くなる。それは避けられない道である。そのようなものに貴重な時間を割くのは本当に重要なことだろうか?

クリエイターは、かわいいの背後にある文化にこそ力を注ぐべきではないだろうか。

2013年6月25日火曜日

【ストーリー解析】「攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」

2013/6/22に公開されたアニメ映画「攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人は観ましょう。

















■上映時間
59分。4部方式での公開が予定されており、その第一弾である。

■スタッフ
原作 - 士郎正宗
総監督、キャラクターデザイン - 黄瀬和哉
シリーズ構成、脚本 - 冲方丁
アニメーション制作 - Production I.G
製作 - 「攻殻機動隊ARISE」製作委員会(バンダイビジュアル、講談社、電通、プロダクション・アイジー、フライングドッグ、東宝)
配給 - 東宝映像事業部

劇場特典の小冊子によると、士郎正宗がARISE全体のプロットを用意したようだが、冲方丁もある程度自由にプロットに関わっているらしい。おおよそ、この2人でストーリーは決定されたと推測できる。

■声優
草薙素子 - (田中敦子) → 坂本真綾
荒巻大輔 - (阪脩) → 塾一久
バトー - (大塚明夫) → 松田健一郎
トグサ - (山寺宏一) → 新垣樽助
パズ - (小野塚貴志) → 上田燿司
ロジコマ - 沢城みゆき
クルツ - 浅野まゆみ
ライゾー - 星野貴紀
()内は旧キャスト。

主要メンバーのキャストが一新された。しかし、新キャストである違和感はほとんど無かった。唯一、バトーの低音が響きすぎていて耳についた。音響のせいもあるかもしれない。
ただし、演技と言う意味では、まだ自由に感情を出せていない感じがする。キャスト変更に対するプレッシャーからか、声色が一定で押し殺したような堅苦しさを感じた。

■音響・映像
自分が観た劇場では、音にだいぶ迫力をつけているように感じた。最初の雷の音だったり、衝撃音だったりが、かなり強調されている。
映像は、他のアニメ映画と比べて特にすぐれているというわけではない。ただ、アクションシーンは気合を入れていることが伝わってきた。

■総評
ストーリーが淡々として映画として成立していない(後述)。これは単なる謎解きだけで感情描写をおろそかにしたことが原因である。結果的に、「SOLID STATE SCIETY 3D」の時と同じで感情移入のしにくい作品となっている。
音響を除けば、劇場の大画面で観る必要もあまり感じられない。ARISEシリーズは、まったく新しい功殻機動隊を目指して作られたらしいが、旧作と多少見た目が違うという以外に目新しさは感じられない。新キャラクターはどこかで見たような感じだし、従来メンバーもちょっと若返ったぐらいの印象しかない。TVアニメでハマった自分としては、ちょっと残念である。


■ドライバー分析
本作のメインドライバーは次の2つである。

①マムロ中佐殺害事件の真相を暴く(E-G)
②素子が擬似記憶作成ウイルス「ファイア・スターター」の存在に気がつく(E-G)

①が最大のドライバーであり、②がネタバレにあたる。またサブドライバーとしてARISEとしての位置づけ、

③公安9課の特殊部隊(功殻機動隊)設立への経緯の紹介(P)

や、他のメンバーの動き、

④荒巻、トグサ、パズ、バトーらがそれぞれ中佐事件を捜査する。(E-G)

などがある。


■ストーリー詳細
覚えている限りで、ストーリーをまとめる。劇場特典の小冊子にもストーリーの大半が書いてあったので参考にした。専門知識の多い作品なので、筆者の知識では補完できない箇所もある。

G 雨降りしきる軍人墓地。公安9課の荒巻は、7日前に殺害されたマムロ中佐の死の謎を解明するため、部下に指示して中佐の墓を掘り起こそうとしていた。また、中佐には収賄容疑がかけられていた。

E しかし、そこに中佐の元部下であり陸軍501機関所属の草薙素子(以下、素子)が妨害に現れる。

G 場の職員達に緊張が走ったが、荒巻が自分と中佐が旧知の仲であり、事件解明のために必要な捜査であると説明すると素子は棺を検めることを了承する。

E しかし、棺から出てきたのは中佐の義体ではなく少女型の自走地雷であった。

G 突如襲い掛かってきた自走地雷を素子が破壊する。

P 素子は帰国直後中佐から、メッセージとディスク、拳銃を受け取っていた。

G(E)501機関に戻った素子は、上官のクルツに中佐の捜査を願い出るが快い返事をもらえない。

E 自室に戻った素子は、突然背後に自走地雷を目撃する。しかし、幻だったのか、どこにもいない。

G 翌日、素子は中佐の当日の行動をトレースする。そして監視カメラの映像から尾行者の存在を知る。

E 素子は、突如右手の謎の痛みに襲われる。ツムギのラボで検診を受けるが義体に異常は無い。

LF 素子は501部隊からの独立を望んでいたが、それを保証する中佐の推薦状などが、中佐の収賄容疑で無効になると告げられる。

P そんな矢先、荒巻が素子に中佐の口座から消えた金の流れと棺の記録解析を依頼してくる。

P 荒巻に、自身の多額の送金記録について聞かれた素子は、義体化の恩人への送金だと説明する。

G 依頼を受けた素子は、新浜県警察署で捜査にあたるトグサに目をつけ、尾行者のデータをリークする。

E そのとき何者かが電脳に侵入した気配を感じ、屋外へ飛び出す。

E 不審車を見つけるが、ライゾーから脱走者として制圧される。(この侵入者はバトーである。)

P 依然、501機関の捜査協力は得られない。

P 荒巻から護衛兼連絡役のロジコマが送られてくる。

G ロジコマから陸軍警察の捜査情報を得て、ニューポートシティの古びたビルに向かう。

G そこで、陸軍警察の潜入捜査官であるパズから自走地雷の出所が第六演習場であるという情報を得る。

E 501機関に戻った素子は、ライゾーから捜査を続けるなと脅しをかけられる。

E 自室に戻った素子は、ふたたび自走地雷を目撃する。しかし、やはり姿はどこにもない。

P 第六演習所に侵入した素子は、独自に動いていたトグサや、あるレンジャー隊員の殺害容疑者として素子を追っていたバトーと鉢合わせる。

E(G) バトーが素子に襲い掛かる。バトーによると、素子がレンジャー隊員の殺害に使用された自走地雷を入手していたという。しかし、素子には覚えが無い。

P また、素子の右腕に痛みが走る。

E 尾行者としてリストされていたアムリとモウトが現れ、大量の自走地雷と共に襲い掛かる。

G フェンスに追い込まれた3人だったが、パズに助けられる。

P パズによって荒巻のところに連れて行かれた素子は、自身があらゆる点で容疑者だと告げられる。

G 素子は、周りの状況と事件の整合性から自身の記憶の異常に気がつく。

P また、素子の右腕に痛みが走る。

G ロジコマに自身の視覚データを同期させた素子は、真実の世界に気がつく。自身の視覚データは偽装記憶ウイルス「ファイア・スターター」により改ざんされており、自分の部屋には自走地雷がおり、送金相手だと思っていた写真の女性は存在せず、中佐から受け取ったはずのディスクも消えていた。

G 素子は、中佐の墓地を再び掘り返し、ニセの棺のさらに下に埋まっていた本物の棺にたどりつく。

P 中佐の義体から情報を得た素子は、自身が7日前に帰国したこと、死亡直後の中佐の電脳に同期したこと、そこで偽装記憶ウイルスに感染したことを知る。

G 素子は、中佐の口座から自身の口座に送られていた現金をエサに真犯人をおびき寄せる。

P そこに現れたのはライゾーであった。

EG 襲い掛かるライゾーを激しい戦闘の末、倒す。

P そこにクルツが現れ事件の全貌を語る。

P 素子は、中佐が国の軍事兵器の違法売買を公表しようとしていたこと、501機関の存続のためには、中佐の排除はやむを得なかったことなどについて一定の理解を示す。

G 素子はツムギのラボで、偽装記憶ウイルス「ファイア・スターター」による改ざんを受けた記憶部位の除去を行う。

G 素子は事件を違法売買の公表をもみ消そうとした大臣を襲撃する。

P 中佐の容疑が晴れ自由な身分になった素子の前に荒巻が現れ、新組織が設立される見込みであること、素子を特務コンサルタントとして迎える準備があること、部隊は6名から構成可能であることなどを告げる。

(border:2へつづく)

色々込み合っているが、ストーリーの要所は先ほどのドライバーで示したとおり、事件の究明と、素子の偽装記憶の払拭にある。


■いくつかの疑問点

①501部隊はどうなった?
中佐を殺害した501部隊はお咎めなしなの?それでいいの?
実行犯のクルツともなんか仲良さげにするし、事件の決着が中途半端だ。素子が何をしようとしているのか分からなくなる。レンジャー隊員も死んでるし、何らかの形で裁かれる必要があったのではないだろうか。

②偽装記憶ウイルスってなんぞ
偽装記憶ウイルスの正体が良く分からない。501部隊が中佐の電脳に仕掛けたものなのか?それともまったく出自不明なのか?作られた記憶は、なぜ都合よく素子を犯人に仕立て上げたのか?あるいは任意の記憶へ操作可能なのか?
右腕の幻肢痛は「記憶の持ち主」を示唆しているのではないのか?

③自走地雷はどういうルートで素子の部屋に?
よくわからん。バトーによると素子が購入したらしいが、偽装記憶がそうさせたのか?だとしたらなぜ?

④中佐を撃ったのは誰?
作中ではクルツっぽかったけど、自殺と言う説も。BDに書いてあるとかなんとか。

■改善案

本作のストーリーの問題点は、エモーショナルラインがはっきりせず、また、ARISEのパート1としても新鮮味にかける点である。そこで、次のような設定を考慮するといいかもしれない。

①偽装記憶による「偽りの温かみ」の導入
本作の素子はまったく新しい功殻と言いながら、相変わらず端的で強い女である。冲方はインタビューで、草薙素子を女性として描こうとしたなどと言っているが当の素子にはそんな素振りが毛ほども無い。若くなって色気がなくなっている分、より女性らしくなくなっているようにさえ思える。
そこで、偽装記憶に次の設定を入れる。

・偽装記憶ウイルスは、501部隊が仕掛けたものである。
・偽装記憶ウイルスは、中佐の記憶を利用し事件の隠蔽を図るようプログラムされている。
・偽装記憶ウイルスは、中佐の娘の記憶データを利用して素子の記憶を偽装した。
・右腕が痛むのは、義体化した中佐の娘が持っていた症状の再現である。(つまり、娘の記憶を使って偽装されているときに痛みは起こる。)
・素子は、旧作ではありえないような感情の表し方をする。例えば、中佐を父のように慕ったり、墓を荒らす荒巻に怒ったり、義体化の恩人を想ったり。視聴者は驚く。(ただし、後にウイルスの影響と分かる。)
・素子は、偽装された記憶部位を切除し、旧作ライクなニヒルな性格に戻る(=ARISE)。
・視聴者は、どこまでが素子の「元の」性格なのか分からない。それがボーダー。


本作でも、最後の記憶を消去する場面で偽の記憶が温かみを持って描かれていた。それをより全体に適応するということである。ストーリー全体は、単に偽装記憶ウイルスに気がつくというサスペンスだけでなく、偽りだが温かみのある記憶との決別を主軸に置く。例えば、写真を大事そうに眺める演出を強化しても良いだろう。そこに人間らしい脆さを持つ素子が描ける。

事件だけでは、視聴者を引き付けるストーリーとしては弱い。事件の顛末だけでなく、(偽りの)少女草薙素子の寂しさや愛しさをストーリーに加えるべきだった。

これにより、感情豊かだがどこか違う素子から出発して、整合性の取れた素子へと終着する。文字通り、視聴者も偽の記憶に騙されるのだ。















②クルツは解任
クルツが自首してけじめをつける(ただし、クルツが撃ったのならば)。どうもクルツをカッコよく描きたいようなので、豚小屋にぶち込むよりも、カッコよくけじめをつけてもらう。データは結局公表されないで、事件は闇の中、ただしクルツは解任というあたりの結果で収まるのがいいかもしれない。さすがに1時間かけた事件には落としどころを用意して欲しい。


以上の2つで、ある程度感情移入しやすいストーリーになると思われる。

2013年6月1日土曜日

【ストーリー解析】「言の葉の庭」

2013/5/31に公開されたアニメ映画「言の葉の庭」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人は観ましょう。



■スタッフ
監督・脚本・原作 - 新海誠
作画監督・キャラクターデザイン - 土屋堅一
美術監督 - 滝口比呂志
音楽 - KASHIWA Daisuke(柏大輔)
制作・著作 - コミックス・ウェーブ・フィルム
配給 - 東宝映像事業部

監督・脚本・原作は新海誠。絵コンテも切ったとラジオで言っていた。なので、ストーリーは新海さんが決めたと思っていい。
ちなみに上映時間は46分で、普通のアニメ映画の半分ぐらい。ただし、ストーリーボリュームは一時間分ぐらいあると思う。

■声優
タカオ(秋月 孝雄)- 入野自由(いりのみゆ)
ユキノ(雪野 百香里)- 花澤香菜

主人公、ヒロイン共によい演技だった。花澤さんは、普段萌えキャラを演じることが多いので、一瞬ユキノとはミスマッチに聞こえる。しかし、大人な花澤ボイスというのもなかなか魅力的でぞくぞくした。

中の人の私生活とダブらせてしまうと、バーチャル香菜みたいな感じでより楽しめる(妄想です)。女性声優好きとしては、普段聞けない花澤ボイスだけで観る価値あり。

■映像・音響
特筆すべきは、雨表現の豊かさ。特に水面や、濡れたタイルには目を奪われる。一部CG?なのかな。そのすごさは、開始の1カットで分かるレベル。色々な雨の形態にもこだわっている。
また、激しい雨音や雷音もいい演出だった。

■総評
本作品の見所は、次の3点。

①雨表現
②ユキノの表現(眼差し・仕草・声)
③文学的なモチーフ

アニメとしては非常に完成度が高い。日本の多様な雨を描いた作品としては、素晴らしい内容。また、ストーリーもよく練られている。ただし、設定や終わり方には若干違和感がある(後述)。とはいえ、花澤好きは必見だし、声優ファンでなくとも、映像作品、あるいは文学作品として観る価値は十分にあると思う。是非多くの人に見て欲しい。


■ドライバー分析

さて、続いてストーリーの解析に移る。まず、ストーリーを構成するメインドライバーは、次の2つ。

①タカオのユキノへの恋心(L-L-F)
②タカオがユキノの再出発を助ける(E-G)

一見、本作は単純な恋愛もの「タカオとユキノの恋(L-L)」に見える。しかし、実際には②の「タカオがユキノの再出発を助ける(E-G)」が最大のドライバーである。

公式では、本作を「恋」ではなく、愛に至る以前の孤独、「孤悲」の物語と位置づけている。それはつまり、単なる「恋」ではなく、ユキノの落ち込む原因(再出発を拒んでいるもの)=「孤悲」を払うことがストーリーの根幹だということだ。
そして、それを成すための原動力が、①の「タカオのユキノへの恋心(L-L-F)」なのである。

ちなみに、「孤悲」とは万葉集の中で見られる「恋」の当て字であり、「こひ」と書いて、「こい」と読むらしい。「恋」にまつわる気持ちの中で、「あなたがいなくて寂しい」という悲しさを強調した表現といえる。
英語で言えば、恋が「I love you.」に近く、孤悲が「I miss you.」に近いといったところか。

劇中では、ユキノの「気持ちを打ち明けられないゆえの孤独と悲しみ」や、タカオの「気持ちを打ち明けてくれないゆえの孤独と悲しみ」に対応する。


予告編で明らかにされないネタバレとしては、

・ユキノがタカオの高校の教師であること

また、サブドライバーとして、

・タカオが靴職人を目指す(L)
・タカオがユキノを追い詰めた生徒に怒りをぶつける(E-G)

などがあるが、この辺はストーリーというよりは、設定(P)に近い。


■ストーリー詳細

思い出せる範囲でのストーリーは次のようなもの。

P タカオは、靴職人を目指す高校生。雨の日が好きで、雨の日はいつも学校をサボり新宿の日本庭園に行き靴のデザインなどを考えていた。

P ある雨の日、その日本庭園の東屋で、金麦を飲んでいる若い女性(ユキノ)と出会う。

P タカオは、チョコを食べながら金麦を飲んでいる彼女を変な人だと思ったが、どこかで見た事がある気がしたので声をかける。
彼女は「ない」と答えるが、タカオの制服に気がつき「ひょっとしたらあるかも」と答える。

P タカオはまた、別の雨の日、同じ東屋で彼女に出会う。

L 2人はサボり仲間として少し打ち解ける。彼女は、雨の日にまた会うかもと言って一句短歌を詠んで去る。
「鳴神(ナルカミ)の光りとよみてさし曇り、雨さへ降れや。君は留らむ」
タカオには意味が分からない。

L タカオと彼女は雨の日に同じ東屋で会うようになり、弁当を持ち寄ったりして、次第に打ち解けてゆく。タカオは次第に彼女に惹かれていく。

EG ところが、ユキノは実は味覚障害を発症しており、仕事についてもすでに止める手続きを始めていた。ユキノは自分の情けなさを憂い、元彼にも心を開けず、孤独な日々を送っていたが、タカオとの出会いがそんなユキノの心を少しづつほぐしていく。

L タカオは、彼女の悩みの多い背後を想像し、彼女が元気を取り戻せる靴を作りたいと思うようになる。

L ユキノは、タカオに弁当のお礼として、靴の専門書をプレゼントする。

L タカオは女物の靴を作ろうとしているがうまくいかないからと言って、ユキノの足を採寸する。

E ユキノは、タカオが寝ているときに「私はまだ大丈夫かな」とぽつりと不安を口にする。

F 梅雨があけ、夏になるとめっきり雨が降らなくなり、二人が会う回数は激減する。タカオは学費を稼ぐ為にバイトをし、ユキノは悶々としていた。

E 2学期がはじまり、ある日高校で、タカオは職員室から出てくるユキノにばったり出会う。実は、ユキノはタカオの高校の古典の教師だったのだ。そして、今度辞めるのだという。原因は、彼氏をとられたと勘違いした女生徒の逆恨みで、良くない噂を流され追い込まれたからだという。

G 別の日、事実を知ったタカオは、噂を流した女生徒に詰め寄り平手打ちをかます。しかし、その取り巻きにボコボコにされる。

L 雨は降らず、約束もなにもないが、タカオは日本庭園を訪れる。そこに、ユキノがいる。

L 気まずそうにするユキノに、タカオは短歌の返しの歌を詠む。
「鳴神の光りとよみて降らずとも、我は止らむ。妹し止めてば」
(雨が降らなくとも、あなたが言えば留まるのに)

E 突如、雷雨が降りはじめ、2人は東屋に駆け込むが、ずぶ濡れになってしまう。

G 体が冷えてしまった2人はユキノの自宅に行き、着替えてお茶を飲むことに。

L 2人は、しんみりと人生で一番の幸せを感じる。

F そこでタカオは、淡い恋心をユキノに打ち明ける。しかし、ユキノは年齢差や(直接的ではないが)教師と生徒という間柄から、気持ちに正直になれず、タカオの気持ちに応えられない。

F タカオは、悔しくて濡れた服に着替えなおしてユキノの家を飛び出す。

L ユキノは、タカオが出て行った後、かけがえのないものを今失おうとしていることに気がついて、後を追いかける。

L 非常階段でタカオを見つけたユキノに、タカオは悔しさを激しくぶつける。

L(G)ユキノは、それに突き動かされて大泣きしながらタカオを抱きしめる。

P 少し月日がたち、ユキノは実家のある四国で、教師として再就職する。

L タカオは、ユキノからの手紙を読みながら、いつか自分がもっと成長したら会いに行こうと心に決める。

(おわり)

マクロで見るとメインドライバーは、タカオとユキノの恋物語(L-L-F-L)に見えると思う。
しかし、そう考えるとどうしてもその後の展開が引っかかる。単純な恋愛ものなら、タカオとユキノは付き合ってハッピーエンドでもおかしくない。しかし、実際には、ユキノは四国で別の生活を始め、タカオは靴も渡せず、いつか会いに行くなんて悠長なことを言っている。まるで、別々に暮らすことを決めた「もののけ姫」のサンとアシタカのようだ。

これを読み解くには、タカオが従うドライバーが正確には2つあることを知る必要がある。それは次の2つである。

①ユキノに対する恋心(L)
②ユキノを救いたいという気持ち(G)

これらは似ているが、ストーリー上は異なる役割を果たしている。
これらの違いは、クライマックスのユキノがタカオを抱きしめるシーンで明らかになる。このシーンはユキノの本当の気持ちを語るシーンなのだが、ユキノはタカオのことを「好き」ではなく「救われていた」と言っている。これは、ユキノにとって、タカオは恋人ではなく、自分を苦しい孤独から救い出してくれた恩人であるということを物語っている。

つまり、このシーンでは恋心に対する返答(①に対する返答)が成されているわけではなく、救い出したいと言う気持ちへの返答(②に対する返答)が成されているのだ。そこに、恋の物語から孤悲の物語への昇華がある。

このシーンで、前者はタカオの広い意味での失恋(L-F)として完結し、後者はユキノを孤悲から救い出すというストーリー(E-G)として完結されている。

そう考えると、その後の2人の距離感やエピローグの展開にも合点がいく。


■伏線の解説

①和歌ついて
ユキノが詠んだ句は、万葉集の2513番で

「鳴神(ナルカミ)の光りとよみてさし曇り、雨さへ降れや。君は留らむ」

大雑把な意味は、「雷が鳴って雨が降れば、あなたを留めておけるのに」である。
こんな句を詠まれたら男なら一発でころっといってしまいそうだが、劇中では意味が分からない前提で詠まれた。後半で、返しの歌や、古典の教師であるということにつながっていく。また、少し自分の正体を明かしたいという気持ちもあったようだ。

それに対して、タカオが詠んだ返しの句は、万葉集の2514番、

「鳴神の光りとよみて降らずとも、我は止らむ。妹し止めてば」

大雑把な意味は、「雷が鳴って雨が降らなくとも、あなたが言えば留まるのに」。劇中では、「雨が降るという口実がなくても、あなたに会えるのならここに来ます」という感じだろうか。
良い演出である。
また、ユキノがタカオの後を追う最後のシーンでもこの短歌が挿入されており、そこでは短歌本来の、「妹し止めてば=あなたから行かないでと言って欲しい」というタカオの気持ちが表現されている。


②味覚障害
チョコをかじりながらビールを飲む偏食家と思いきや、実は伏線で、味覚障害という展開。弁当に自信がなかったのも、うまく味見できないという側面があったのだろう。(ただし、実際料理も下手みたいだが。)さらに、味覚障害の原因が、学校で追い込まれていることだという物語の核心へとつながっていくあたり上手な伏線の張り方である。


■いくつかの問題点

①ユキノの職業がなぜタカオの高校の教師なのか?
この設定にはかなり違和感がある。この設定により、ユキノがタカオを拒否する理由に、年齢の差だけでなく、教師と生徒という非常に倫理的な問題が加わってしまう。
倫理的問題があるとさすがに応援し難い。
また、「あったことがあるかも」で同じ学校てのはさすがに世間が狭すぎる。

②うまく行かない原因が学校での妨害工作で良かったのか?
なぜ、このような不快な設定にしたのだろうか?悪役がはっきり決まってしまう設定が良かったのか甚だ疑問である。おそらく視聴者は、原因の女生徒や、ユキノの元恋人でおそらく同僚の先生に怒りがこみ上げることだろう。
しかも、平手打ちこそしたものの、ユキノは結局辞めてしまったのだから、局所的に見るとこれは悪が倒されない、問題が解決しないバッドエンドとも取れる。
雨の日に出会うという情緒的でファンタジックな内容に、なぜ下衆を登場させる必要があったのだろうか。学校関連シーンはそのせいで後味の悪いものになっている。

③靴フラグはなぜ回収されなかったのか?
せっかく作った靴がどうして彼女の足に収まらなかったのだろうか。
もしドライバーが、「タカオがユキノの再出発を助ける」ならば、彼女が靴を履いて教壇に立っている姿が真のハッピーエンドのはずである。しかし、本作ではそうはならない。どうも監督は、靴=タカオの恋心と思っているようである。だから、靴が渡せない=失恋という結末になっているのだろう。
しかし、ドライバーの整合性から言えば、靴は恋心の象徴ではなく、恋心から派生した現実的な終着点=彼女を救うことの象徴である。恋心は叶わなかったが、救いたいという願いはかなった。ならば靴は履かせるべきである。靴を送り、その返信の手紙を読む。それがあるべきエンドである。


■改善案
できれば高校教師ではない設定にしたいが、代替案は難しそうなのでパス。唯一変更するならば、エピローグには、ユキノが靴を履いた姿を入れるということぐらいか。


2013年4月29日月曜日

思考の分解について


言語を用いた思考の分解について説明する。
思考の分解とは、ある命題をその構成要素に分解し分析する手法である。

私たちは脳の情報処理に従い、ある命題を盲目的に信じている。思考の分解は、そういった盲目的に信じている命題を問い直し、その背後にあるゲシュタルトを明らかにする。

■アプリオリな命題

-------------------------------------------------------------
ルール1:アプリオリな命題から始める。
-------------------------------------------------------------

思考の分解のスタート地点は、アプリオリな命題である。アプリオリな命題とは、無条件で真だと確信している命題を指す。平たく言えば、ある気持ちや、信念や、思い込みのことである。

人間の脳の情報処理は論理的ではない。その多くの部分は過去の記憶や情動に基づいており、それゆえに人は論理に頼らずとも決定が下せる。それが人間の強みでもあり、弱みでもある。

私たちは、「アプリオリな命題」を説明不要な大切なものだと考えている。しかし、それは必ずしも正しい意味を持っているとは限らない。

思考の分解の目的は、私たちがアプリオリな命題として表現している「何か」の正確な意味を知ることである。

逆に、アプリオリでない命題は思考の分解の対象としては、あまり適切ではない。

■否定形の禁止

-------------------------------------------------------------
ルール2:否定形を用いてはならない。
-------------------------------------------------------------

思考の分解は、一見論理学に近い。しかし、実際には大きな差異がある。それは、否定形の禁止である。これは、「○○でない」「非○○」「○○以外」といった否定表現を禁止するものである。
否定形の禁止は、概念による宇宙の分解をゆるやかに禁止する。否定形を用いることができる場合、「偶数」という言葉は、宇宙を「偶数」と「偶数でないもの」に分割する。この分割は自明であり完全である。ある概念は、少なくとも「偶数」か「偶数でないもの」のどちらかに属することになるだろう。しかし、「偶数でないもの」を我々は本当に認識できるのだろうか。それは「奇数」かもしれないし、「無理数」かもしれないし、そもそも「数字でないもの」かもしれない。そんなブラックボックスを思考の分解は禁止する。
もし、宇宙を「偶数」と「奇数」に分解したら、「偶数でも奇数でもない」何かが宇宙には取り残されることになる。思考の分解はそれを容認する。

思考の分解は、論理的で完全な分解を放棄し、主観的で不完全な分解を採用する。それは、思考の分解が真理を目指すものではなく、自身の分解を目指すものだからである。

■主体性の認識

--------------------------------------------------------------
ルール3:アプリオリな命題が定義か、経験的事実かを確認する。
--------------------------------------------------------------

あるアプリオリな命題を信じる者にとって、アプリオリな命題はアイデンティティに関わる命題である。つまり、それを否定することは困難である。
それは言語レベルを超えて定義されており、言語でそれを覆すことはできない。

つまり、思考の分解の目的は、そのアプリオリな命題を否定することではない。思考の分解の目的は、それを真偽もろとも分解することである。

そこで、まずその由来を明らかにする。

例えば、A君は『僕は弱虫だ』というアプリオリな命題を持っていたとしよう。A君のファーストステップは次のように問うことである。

「『僕は弱虫だ』は定義か、それとも経験的事実か?」

定義の場合も、経験的事実の場合もあるだろう。しかし、それはどちらでもかまわない。この問いの目的は、アプリオリな命題を作り出しているのが自分だと認識する為のものだからである。

■命題の分解

--------------------------------------------------------------
ルール4:命題を単語に分解する。
--------------------------------------------------------------

A君の次のステップは、アプリオリな命題を単語に分割することである。

『僕は弱虫だ』→『僕』と『弱虫』

『僕は弱虫だ』には真偽があるが、『僕』と『弱虫』には真偽が無い。命題は破壊される。

残るのは、『僕』と『弱虫』の間の「関係」である。脳には、バラバラなものをつなぎとめるゲシュタルト能力がある。この段階では、まだ、『僕』と『弱虫』の間には何らかの関係があると信じているが、それは若干曖昧になっている。

■単語の分解

--------------------------------------------------------------
ルール5:単語を複数の単語に分解する。
--------------------------------------------------------------

さて、ここから、命題と命題を構成する単語を本格的に破壊する。単語の分解の種類には、次のような手法がある。

①合成語分解
例:ギリシア人 → ギリシア/人

②抽象度(集合)分解
例:人間 → 男性/女性

③属性分解
例:アリストテレス → 哲学者/ギリシャ人

④和分解
例:男 → 男/女

⑤類語分解
例:かわいい → 愛しい/初々しい/キュートな

⑥定義分解
例:有理数 → 二つの整数a,b(ただしb≠0)をもちいてa/bという分数で表せる数のこと

試しに、『弱虫』を分解してみよう。

弱虫 → 弱い/虫 (合成語分解)
弱虫 → 弱虫/強者 (和分解)
弱虫 → 臆病者/泣き虫/恐がり/ヘタレ(類語分解)

このような分解によって、潜在的に「僕は弱い」や「僕は泣き虫」のような命題が発生する。これは、バラバラの単語の状態になっている状態を脳が嫌ってゲシュタルトを形成しようとするからである。しかし、さらに分解を進める。

■単語の定義

--------------------------------------------------------------
ルール6:単語を定義する。
--------------------------------------------------------------

分解によって生じた単語のうち、定義のあやふやなものを定義する。このとき、何を満たせば、そう言えるのかを意識する。一般に単語を定義するのは難しい。
定義し難いものは、さらに分解して定義を試みる。

例えば、『弱虫』は定義可能だろうか?もし、定義不能ならば、『弱虫』を分解した「臆病者」や「泣き虫」についてはどうだろうか?

ここでは、仮に『弱虫』は定義不能だが、「恐がり」や「泣き虫」は定義できたとしよう。

「恐がり」 ⇔ すぐ恐がる人
「泣き虫 」⇔ すぐ泣く人

■命題、単語の破棄

--------------------------------------------------------------
ルール7:定義不能な単語、真偽不明の命題を破棄する。
--------------------------------------------------------------

分解された単語や、それらの組み合わせによる命題のうち、定義不能な単語を用いたものや、情報不足によって真偽不明の命題を破棄する。結果的に残るのは、定義された単語による明確な命題だけである。

先の例では

『僕は弱虫だ』 → 『弱虫』が定義不能なため破棄する。
『僕は恐がりだ』 → これは新たなアプリオリな命題である。
『僕は泣き虫だ』 → これも新たなアプリオリな命題である。

となる。

このあたりの段階で、おそらく元の命題はゲシュタルト崩壊し、分解されたもののうち自明なものしか残っていないだろう。

A君が信じていたアプリオリな命題『僕は弱虫だ』は破棄され、『僕は恐がりだ』や、『僕は泣き虫だ』が採用される。これがA君の本当に信じていた命題である。

もちろん、『弱虫』を「恐がりで泣き虫のこと」と定義すれば、『僕は弱虫だ』はアプリオリに真である。しかし、この命題はゲシュタルトという意味では分解前とは若干異なっている。

なぜなら、再構成の手順の中で、『弱虫』の中の「恐がりでも泣き虫でもないなにか」が宇宙に取り残されてしまうからである。

人間は、曖昧なものを信じることができる。しかし、それは必ずしも言語で表現できるものではない。思考の分解は、言語の力を借りて自身の信じているものを明確にする。それは、曖昧な何かを捨てることであり、明らかなゲシュタルトを構成し直すことである。

2013年4月21日日曜日

【ストーリー解析】「劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ」


2013/4/20に公開された「劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ」のストーリー解析を行う。

*完全なネタバレなので、まだ観てない人は観ましょう。



■スタッフ
原作 - 志倉千代丸/MAGES./Nitroplus
企画 - 安田猛
スーパーバイザー - でじたろう
総監督 - 佐藤卓哉、浜崎博嗣
監督 - 若林漢二
シナリオ監修 - 松原達也、林直孝
脚本 - 花田十輝
キャラクター原案 - huke
キャラクターデザイン・総作画監督 - 坂井久太
アニメーション制作会社 - WHITE FOX

脚本は花田十輝。アニメ脚本でよく見かける気がする。ただし、今回も劇場版なので誰がどの程度ストーリーを決定したかはよく分からない。


■声優
牧瀬紅莉栖 - 今井麻美
岡部倫太郎 - 宮野真守
椎名まゆり - 花澤香菜
阿万音鈴羽 - 田村ゆかり
橋田至 - 関智一

とにかくミンゴスの演技が素晴らしかった。主役として気合が入っていたと思う。


■演出
TV版(またはゲーム版?)の演出を踏襲しすぎていて、新鮮味に欠ける。随所にクリスのサービスシーンがあるのだが、それよりもr世界線のような、新しい要素、新しい演出が見たかった。服が同じなのもマイナス。
また、極端なアップが多く、劇場版=大スクリーンという特性をまったく解していない。作画も劇場版というほどのクオリティではなく若干の違和感がある。
ただ、クリス役の今井麻美や、まゆり役の花澤香菜の演技が良かったので、泣けるシーンは結構あった。


■総評
劇場版というには、演出面でもストーリー面でも穴が目立った作品だった。おそらく製作にあまり時間や予算がかけられなかったのではないだろうか。上映時間の制約もあるが、もう少しストーリーをまとめられるのではないかという印象。(最後の改善案参照)
ただ、続編が見られるというのはうれしい限り。


■ドライバー

本作のメインドライバーは2つ。

・リーディングシュタイナーの負荷による岡部の世界線移動を阻止すること。(E-G)
・クリスの岡部への想いについての葛藤(L-F-L)

これらは、『負荷領域のデジャブ』というタイトルを回収するものである。これらが本作のストーリーの根幹部分になる。ただし、L-F-Lの構造は結構分かりにくい作りになっている。

他にもサブドライバーとして、

・まゆりとオカリンの間の関係崩壊と修復(L-L-F-(L))
・まゆりのクリスへの愛情(L)
・ラボ解散の危機(E-G)

などがある。ただし、サブドライバーはどれも強度が高いわけではない。


■ストーリー詳細

覚えている範囲で、ストーリー詳細は次のようになっている。

P シュタインズゲート到達後、1年が経過した状態でスタート。

L クリス来日。まゆり、ルカ子らが出迎える。

F 岡部照れて出迎えに来ない。バーベキューの準備をしたり、プレゼントを買ったらしい。

E 岡部に異変(他の世界線の出来事のフラッシュバック)が起こり始める。

L バーベキューで酔っ払ったクリスが岡部に絡んでいちゃいちゃする。岡部はスプーンとフォークをプレゼント。

E 再び岡部に2度のフラッシュバックが起こる。

L まゆりがオカリンを心配する。オカリンはそれに応える。

E(L)クリスのホテルに謎の人物(鈴羽)が現れ、謎の助言を残す。

L 岡部のプレゼントに応えて、クリスは白衣をプレゼント。

E 岡部消失。クリスも岡部を忘却しかける。

G クリス、フォークの存在に気がつき、助言を思い出す。

G タイムリープマシンを完成させ、消失の1日前にタイムリープ。

P(L)タイムリープを確認した鈴羽と合流。さらに岡部とも合流し現状整理。r世界線についての説明も。

L クリスは岡部を失いたくないが、岡部は過去改変を行うことを頑なに拒否する。

F 岡部クリスに別れを告げる。

F クリス再び岡部の消失を目の当たりにし、激しく取り乱す。

L まゆりが苦しんでいるクリスを見てタイムリープマシンを作ろうとすることを引き止める。

F クリス岡部の思いを尊重し、過去改変をしないことを決断。

E ラボが徐々に解散へ向かう。

L 鈴羽がクリスを説得に現れる。

L クリスは最終的に説得に応じ、2005年へ。

F クリスをかばって岡部少年がトラックに跳ねられ計画は失敗。

P 過去改変の恐ろしさを味わったクリスは過去改変を断念。

F まゆりが言い表せぬ寂しさを訴えはじめ、ラボのメンバーも岡部のことを思い始める。

L クリス再び2005年へ。

G 岡部に強烈な思い出を残すために、悩める岡部少年にマッドサイエンティストの話などをして、さらにファーストキスを奪う。

L クリスが時空の狭間?にいる岡部と再会。

(おわり)

まとめるとマクロでは、

  E---E-GE-G  r世界線からの脱出要素
L---L-F-L---L クリスと岡部の恋愛要素
   L-L----F   まゆりとオカリンの信頼関係要素

といった3要素が互いに関係してストーリーを形成している。ストーリーの争点はまとめると次のように要約できるだろう。

①クリスが「岡部といっしょにいたい」という自分の気持ちと、競合する岡部の願い(=クリスとまゆりに危険が及ぶことはしてほしくない)のどちらを優先させるかという問題。
②岡部の願いを受け入れた先にある「まゆりとオカリンの関係の崩壊」が、実は後のストーリーを動かすということ。


■多くの疑問点

今作のストーリーはマクロで見るといい感じに見えるのだが、観ていたときは、妙に全体性が欠けているなという印象だった。後から振り返ってみると、色々な疑問点が出てくる。

①服・・・同じなの?
一年後ということをまったく感じさせない設定。謎。劇場版・・・だよな?

②SERNのハッキング簡単すぎないか?
いきなりブラックホールまで使えちゃうのはおかしい。TV版では、相手が全裸待機したからこそ可能だった。ただ、細かいので目を潰れなくはない。

③タイムリープマシン簡単に作れすぎじゃね?
そこまで詳細に思い出せるものなのか。

④鈴羽何しにきたの?
第三次世界大戦も起こってなかったようだし、そもそも過去に来る動機がほとんどない。

⑤ダルひどくね?
岡部の「ダルは頼りになる発言」は何だったのか。言っただけか。ラボも中途半端だしいいとこなし。

⑥ホテルに忍び込んだのはクリスかと
クリスが自分自身を助けるといったタイムパラドックス的な展開を期待してしまった。

⑦なぜ別れ際にチューしたし
選択と恋愛の葛藤を描きたかったんだろうけど、そこはもっと溜めるべきでしょ。

⑧なんで2005年?
クリスが2005年を選ぶ基準が希薄。

⑨r世界線にはオカリンいるの?いないの?
r世界線の設定が謎。過去に戻ったときにいたから、いるにはいるんだろうけど、途中で消えるってどういうことなの。世界線は過去改変で分岐するんじゃないの?あと、r世界線で未来から来た鈴羽はオカリンのこと良く知らないんじゃないの。

⑩過去改変簡単すぎないか?
さんざん過去を変えることの過酷さを説いておきながら、初キッスで万事OKとはこれいかに。


■ストーリー改善案

この作品のストーリーの問題点は、ドライバーが整理できていないことにある。クリスの葛藤も、岡部との恋愛も、まゆりとオカリンの関係性も強度が足りない。狙いを絞って以下のように改変すると良いと思う。

①岡部消失の前倒し
早く事件が起きて欲しいので、プレゼント終了後すぐにオカリンを消失させる。それに伴い、鈴羽の助言と気付きのタイムラグも無くす。つまり、消失→助言→思い出しかける(周りは否定する)→完全に思い出すの流れ。

②キスは最後までおあずけ
別れ際にキスはしない。未練を残す。この世界線のクリスは、そこまで思いいれも強くないのでその方が寧ろ自然。キスは過去改変でのキス一回に集約。

③ラボは解散
ラボはダルの決断で解散へ。

④鈴羽が来るのはまゆりが死んだから
クリスが過去改変を行わなかったr世界戦は、鳳凰院凶真が誕生せず、まゆりがおばあちゃんとさよならできなかった世界線。まゆりはその世界線上で、手を引かれるように短命で生涯を閉じる。それだけまゆりとオカリンの絆は重要なものであり、クリスは岡部ばかりを見ていて、そのことに気がつかなかったことを後悔する。なぜなら、それは岡部が最も大切にしていたものの1つだから。そこで未来のクリスは、同じくラボを解散したことを後悔していたダルと共にタイムマシンを開発する。そして、二人の無念を張らすべく鈴羽はやってくる。ただし、決断は現代のクリスに任せることが条件。

⑤クリスのミッションは鳳凰院凶真を復活させること
岡部をリーディングシュタイナーの負荷から救い、まゆりを助けるためには鳳凰院凶真を復活させる必要がある。そこでクリスは、まゆりとオカリンの関係を修復し、尚且つ岡部に強力な記憶を植え付けるために、岡部少年に鳳凰院凶真(=岡部)という人間の温かみ、思いやり、すごさを伝え、キスをする。それは、岡部少年を鳳凰院凶真にする儀式であり、クリスの岡部への愛の告白でもある。

以上を踏まえて、ストーリーを整理しなおすと次のようになる。

P シュタインズゲート到達後、1年が経過した状態でスタート。

L クリス来日。まゆり、ルカ子らが出迎える。

F 岡部照れて出迎えに来ない。バーベキューの準備をしたり、プレゼントを買ったらしい。

E 岡部に異変(他の世界線の出来事のフラッシュバック)が起こり始める。

L バーベキューで酔っ払ったクリスが岡部に絡んでいちゃいちゃする。岡部はスプーンとフォークをプレゼント。

E 岡部消失。クリスは岡部の消失をはっきりと観測できず、周りにも否定されたためホテルに帰る。(酔いも醒めてなかったかもしれないしとか思う)

E(L)クリスのホテルに謎の人物(鈴羽)が現れ、謎の助言を残す。クリスは不審に思うだけ。

G クリス、ラボで受け取り損ねたスプーンとフォークに気がつき、消失前の出来事を思い出す。

G 助言を思い出しタイムリープマシンを完成させ、消失の1日前にタイムリープ。

P(L)タイムリープを確認した鈴羽と合流。さらに岡部とも合流し現状整理。r世界線についての説明も。

L クリスは岡部を失いたくないが、岡部は過去改変を行うことを頑なに拒否する。

F クリスは岡部のまゆりへの想いを尊重し過去改変を行なわないことを決める。

F 岡部クリスに別れを告げる。

F クリス再び岡部の消失を目の当たりにし、激しく取り乱す。クリスに岡部との色々な記憶が見える。

L まゆりが苦しんでいるクリスをタイムリープマシンの開発を引き止める。

F クリスは岡部の思いを尊重し、過去改変をしないことを決断。

E ダルの決定によりラボが解散へ向かう。

E まゆりが言い表せぬ寂しさを訴えはじめる。ラボのメンバーも岡部のことを思い始める。

L 鈴羽がクリスを説得に現れる。ただし、理由は明かさない。

L クリスは最終的に説得に応じ、2005年へ。

F クリスをかばって岡部少年がトラックに跳ねられ計画は失敗。

P 過去改変の恐ろしさを味わったクリスは過去改変を断念。

L 鈴羽が過去に来た真相(=まゆりの死とダルとクリスの後悔)を話す。しかし、r世界線上の鈴羽は、何がまゆりを救うのかまでは分かっていない。

F まゆりが少しだけオカリンの記憶を語り始める。それは、墓に現れると思ったけど現れなかったオカリンの話。

L クリス、鳳凰院凶真を復活させる為に再び2005年へ。

G クリスは、鳳凰院凶真(岡部)への想いを岡部少年に伝え、やさしくキスをする。

L クリスが時空の狭間?にいる岡部と再会しハッピーエンド。

(おわり)

これで、ストーリーがだいぶ引き締まったと思う。クリスが抱く岡部への愛情には、純粋な岡部への愛情だけではなく、岡部のまゆりへの想いに対する尊敬(こんなにも人のことを大切に思えるものだろうか?)がある。それゆえ、クリスは岡部を助けたいと思うし、まゆりも大切な仲間だと感じている。これらを強化することにより、岡部とまゆり、岡部とクリスという2つの関係性を共存させた本来のシュタインズゲートらしいストーリーになるだろう。

2013年2月11日月曜日

無意識と行動


私たちがとっている無意識的行動の原理にせまる。
私たちはどのように無意識をコントロールして行けばよいのだろうか。


■無意識を直接見ることはできない

まず、無意識について言えることは、こころを直接見ることができないように、無意識もまた直接見ることはできないということです。

デカルトが我思うゆえに我ありと言ったように、私たちは意識の存在については疑いの余地がありません。しかし、こころや無意識は必ずしもそうとは言えません。なぜなら、その処理プロセスを直接見た人はいないからです。

それにもかかわらず、私たちがこころや無意識があると信じる理由は、意識の上では説明のつかない行動を私たちがとっているということを経験的に知っているからです。私たちは知らない間に呼吸を行い、知らない間に恋に落ちます。それを知るのはいつも事後であり、意識に上ってはじめて自分の知られざる行動や、隠された気持ちに気がつくことになります。

私たちは、いつもこころや無意識による「結果」を見ているのであって、こころや無意識それ自体を見たことはありません。

こころや無意識というものは、決して姿を見せない黒幕のようなものなのです。


■意識が無意識をコントロールするという怪しさ

私たちは、意識というものが無意識よりも上位にあると何となく考えています。無意識といえども、意識に上ればコントロールできると。しかし、本当にそうでしょうか?

先ほど言ったように、意識が見ているものは、無意識による「結果」でしかありません。意識が無意識をコントロールしていると思っていても、意識が見ているものはその介入による「結果」にすぎません。その「結果」を生み出した無意識は相変わらずブラックボックスのままであり、その中身については想像するしかありません。

例えば、川の上流から流れてくるものを、川の下流からコントロールできるでしょうか?意識と無意識の関係はそれに似ています。私たちが意識によって無意識をコントロールしていると考えているとき、実際には、影で働く無意識自体が無意識をコントロールしており、その結果を意識が見ているにすぎないのではないでしょうか。つまり、水が逆流しているのではなく、川全体が変化していると考えるわけです。水が逆流するというのは、自然の摂理に反します。

私は、水が逆流すると考えることによって、意識が無意識をだめにするとすら考えています。

よくスポーツなどで、せっかく調子が良かったのにあることを意識しすぎてパフォーマンスが低下するということがあります。これは、無意識が丁度良く調整していたものを意識が妨げてしまったと考えることが出来ます。身体をコントロールしているのはあくまで無意識であり、そこには積極的に介入しない方がよいことだってあるのです。

これは、映画のようなものでも同じことが言えます。例えば、映画を見ているときに、本当に楽しめるのは、その世界にどっぷりはまっている時です。もし、あと上映時間は何分かなとか、終わっちゃうのが惜しいなあなどとメタな視点に立ってしまうと、立ちどころに現実世界に引き戻されてしまいます。身体のコントロールだけでなく、映画鑑賞のような受動的な情報処理でも意識は邪魔になってしまうのです。

さらに、能動的な情報処理、つまり思考についても同じことが言えます。あるアイデアを、次々と思いついているとき、その状態はかなり無意識的です。なぜなら、なぜそのような考えに至ったかは分からず、その「結果」だけが意識に上っているからです。この状態で、今のはいいアイデアだなとか、煮詰まってきたななどとメタな視点に立ってしまうと、急に無意識の活動がストップします。これは、まさにスポーツで意識しすぎの状態と同じです。

結局、意識の存在というのは、無意識がパフォーマンスを発揮しているときには邪魔にしかならず、意識が無意識よりも上位だとか高度というわけではありません。意識はあくまで無意識の下流に位置する存在にすぎないのです。


■無意識は無意識に弱い

さて、実は無意識に最も影響があるのは、意識による介入ではなく、意識に上らない介入です。
つまり、意識が気がつくことなく、無意識に働きかけられると無意識は大きな影響を受けるのです。これは、意識というものの役割を改めて考えてみると、良く分かります。

意識は、無意識がパフォーマンスを発揮しているときに、それを停止するのが得意です。先ほどは、それを悪いことのように書きましたが、実はそれには重要な役割があります。
それは、無意識への攻撃をブロックすることです。無意識を停止できるということは、他者から無意識への介入があった場合には、無意識を停止してそれを中断することができるということです。実は、意識というものは無意識への介入が得意なのではなく、無意識への介入を阻止するのが得意なのです。
先ほどの映画の例で言えば、映画にどっぷりはまっているとき、無意識は無防備に映画による介入を受けています。映画を見た後にしばらくふわふわした感じが消えないのは、無意識が強く影響を受けているからです。メタな視点に立つということは、その無意識への介入を防いでいるともいえます。つまり、意識は一種のファイヤーウォールのようなものなのです。

この意識の働きがハッキリすると、無意識が何に弱いかもハッキリします。つまり、無意識は意識にではなく、意識が働いていないときに受ける介入に一番弱いのです。

頭で分かっていても、体がいうことを聞かないという表現があるように、無意識はなかなか思い通りにならないというイメージが強いと思います。しかし、実際には、誰かからちょっとほめられるだけで、すぐいい気分になったりと、無意識は感受性豊かで影響も受け易い存在です。意識がそれを保護している為に、なかなか変わらないイメージがあるのです。


■無意識の上流へ

もし、あなたが無意識のブラックボックスを操作したいと思うなら、意識の弱い瞬間を狙うのがもっとも効果的です。女性が、風邪などをひいて弱っているときに優しくされるとコロッといってしまうという話がありますが、それも原理的には同じです。防御ができなければいいわけです。

わざわざ風邪を引くわけにはいきませんから、1日の中でそれがどういう時間かを考えてみましょう。すぐに思いつくのは、起床時と就寝時です。寝起きと寝る直前というのは、意識がはっきりしませんから、そのような状態は非常にねらい目です。

しかし、無意識が決定的に変更を受けるのは、実は寝ている間です。意識はまったくありませんから当然でしょう。

私たちは意識のある状態に注目しがちなので、意識の無い睡眠中に何が起きているのかということに対してあまり関心を払ってないように思います。しかし、脳は起きている時と同じぐらい寝ているときも働いています。つまり、無意識は寝ている間も健在なのです。寝ている間に無意識が何をしているかというと、覚醒時に起きた出来事の整理です。無意識だって、起きている間は情報処理で疲れてきますが、寝ている間に、いるものといらないものを仕分けて、疲れを癒しているわけです。

よく夜書いたラブレターを朝見直すとなんでこんなもの書いたのだろうと恥ずかしくなるという話があります。それは無意識が寝ている間に、もやもやした気持ちを整理してしまったからです。私は、寝る前と寝て起きた後は別人になっているとすら考えています。ブラックボックスである無意識の処理メカニズムが変更されているなら、それは別人と言っても良いでしょう。

無意識が上流で、意識が下流なら、睡眠はさらに上流の滝のようなものです。脳は、睡眠中に流れていった水の一部をせっせと滝の上まで運びます。そして、朝目が覚めるとまた水がどっと下流の方へと流れていくのです。

睡眠中は、最も無意識が影響をうける瞬間です。しかし、それに影響を与えるには、覚醒時にそれを仕込んでおく必要があります。その最も適切なタイミングは、無意識がリフレッシュしておりかつ意識が抑えられている状態。つまり起床時です。その後、意識ははっきりとして、逆に無意識はだんだんと疲れてきますから、処理は停滞していきます。そして、眠くなる就寝前にまた無意識が優位になって睡眠へと入るので、次に効果があるのが就寝間ということになります。
ただし、就寝前は無意識が疲れているので、高度な情報処理には向いていません。

そこで、寝る前には何も考えずに後片付けなどをして、起きた後にそれを受け取るというのがベストです。つまり、無意識を使った高度な情報処理は朝一番に、そのためのセットアップは夜寝る前ということです。

朝食をすぐ取れるようにしておくとか、掃除をしておくとか、筆記具を用意しておくなど何でも良いです。例えば、ホテルに泊まったときに、チェックインした夜は疲れ果てて寝ただけだったが、朝起きるときれいな部屋に日が差し込んでいて、食事も用意されており快適な状態でスタートできてとても幸せを感じたということはないでしょうか。これは、寝る前は色々あって疲れていたが、寝ている間に出来事が整理され、寝起きの無意識が無防備なときにリッチなもてなしをされたので、バカ正直にいい気分になったということです。無意識は感受性が高いので、そんなことで恵まれてるとか、幸せだと感じてしまいます。そして無意識は、人生の悩みのような意識上の介入を受けることなく、快適にパフォーマンスが発揮できるというわけです。

ここでは分かり易い例を取り上げましたが、準備するものは課題や書籍など思考のきっかけとなるものでも構いません。

この現象は、動物でいうならインプリンティング(刷り込み)に似ています。ただ、産まれた時に見たものを母親だと認識してしまうように、起きた時にみたものが自分に与えられた価値や環境だと思ってしまう。それが良いものであれば、意識の介入は遅れてパフォーマンスは上がり、悪いものであればすぐに意識が介入し、パフォーマンスが下がります。
ここでポイントなのは、睡眠をまたいでいるために、準備したのが自分だということを無意識は忘れているということです。無意識が疲れている間に準備し、無意識がリフレッシュしている間に受け取る。それだけで、無意識は、とてもいいことがあったと勘違いします。それを利用するのです。

それが成功すれば、朝、夜、睡眠中だけで相当なパフォーマンスがアップします。日中から夜にかけては蛇足と言ってもいいでしょう。無意識というのは、ポイントを押さえればすぐに引っかかってくれますが、理詰めや意識の介入があると、途端に強固な蔵のようになります。
意識の役割をきちんと見定めることが、無意識を使いこなす上で最も重要です。無意識には無意識で、そして意識は単なる観測者ということを忘れなければ、無意識の上流さえも操ることが可能になります。

これからの世の中には、無意識をうまく使いこなせる人が増えてほしいと思います。

2013年2月10日日曜日

一般の文章構成について


今回は一般の文章構成方法について考える。ここでいう一般とは、文芸作品以外の文章を指す。
一言で言えば、「情緒」ではなく「情報」を伝えるための文章ということだ。

まずは、一般の文章の構造を分析し、それを踏まえて構成法を述べる。


■文章における3つの階層構造

まず、文章には次の3つの階層が存在する。小さいものから順に説明する。


1.ミクロ構造(トゥールミンロジック)

「情報」を伝えるための文章の基本は論理である。それにはトゥールミンロジックという枠組みがあり、その構成要素は次のようなものだ。

・データ(D)
・根拠(W)
・主張(C)
・裏打ち(B)
・定量的判断(Q)
・例外(R)

これらの6つが、文章の一番小さい構成要素である。


2.セミマクロ構造

次に、トゥールミンロジックを1つのまとまりとして、それらを含む、節のような短い文章を考える。

まず、先ほどのトゥールミンロジックの構成要素は、大雑把に主張とそれ以外に分けることができる。「○○である」という部分と「なぜならば」に該当する部分である。これらを改めて、

・結論(C)=○○である。
・詳細(D)=なぜならば

としよう。
さらに、セミマクロ構造には、これらに加えて

・宣言(P)
・進んだ結論(AC)

が導入される。節のような短い文章の構成はこれらの組み合わせで成り立ち、代表的には次の3つの形式がある。

①C-D-AC
②P-D-C
③P-D

セミマクロの構造では、必ず文章のはじめに、結論または宣言が行われる。これは、論理とは関係なく、それを読む価値があることを相手に伝達するものである。

①C-D-AC

この場合は、はじめの結論がその伝達にあたる。まず、結論を述べることにより、相手になぜだろうと思わせて、その詳細を述べる。そして、その詳細を述べたことによるアドバンテージを得て、より進んだ結論が最後に来る。ACは必ずしもCの言い換えではなく、Cとは異なるより進んだ結論が述べられる。

②P-D-C

この場合は、はじめの宣言が価値の伝達にあたる。今から「○○について考える」や、「○○を明らかにする」、「○○とは何だろうか?」という宣言を行うことで、読者に結論を明らかにすことなく、その価値が伝達できる。その宣言後、詳細Dが開始され、最後に期待されている結論Cが述べられる。この宣言は、節のタイトルを使って行うこともできる。

③P-D

この場合は、はじめの宣言による価値の伝達は同じだが、結論がない。これは単に結論が無いのではなく、結論が不要な場合に用いられる。例えば、「○○のやり方」とその手順、「○○の分類」とその区分などがそれにあたる。これらは、その詳細自体が伝達したいことであり、それを説明すれば目的は達せられる。


3.マクロ構造(ソート&オーダー)

最後に、セミマクロ構造をさらにひとまとまりと捉えたものが文章全体のマクロ構造ということになる。マクロ構造には、大きく分けて量的なものと質的なものが存在する。

まず、量的には、文章の前後に

・プロローグ(P)
・エピローグ(EP)

が導入される。前のプロローグは、セミマクロ構造でのCまたはPと基本的に同じで、その文章を読む価値を読者に伝えるものである。これは、文章中であきらかにする重要な結論Cである場合もあれば、何を明らかにするかの宣言Pでもありうる。どちらにせよ、それを最後まで読むことのメリットが読者には伝えられる。「要約」という形をとることもある。

後ろのエピローグは、プロローグに比べると曖昧で、1つ1つの結論を踏まえてのさらに進んだ結論AACが述べられる場合もあれば、単に終わりの挨拶である場合もある。また、プロローグはあるがエピローグは無いということもよくある。エピローグにはあまり明確な機能は無い。

次に、質的な構造は、文章の順序に表れる。

1つ1つのセミマクロ構造は内容的に独立しているわけではなく、基本的には前後の依存関係(すなわち順序)が存在する。つまり、セミマクロ構造を適当に並べても大規模な文章を構成することはできない。前後の依存関係を満たした上で、内容が近いもの同士がまとめられることによって、はじめてマクロ構造は決定される。これが章を構成することになる。

単純に言えば、質的な構造は、1つ1つのセミマクロ構造のソートによって生まれる。このソート順には、前提順や、時系列順、ストーリー順、抽象度順などがあるが、もっとも頻繁に現れるのは、前提順である。前提順は、ものごとの前提となっている順のことで、基礎→応用や、方法→実践(結果)、のような順序のことを言う。

マクロ構造は、セミマクロ構造のように新しい文章が追加されるというよりは、「どのような順序か?」ということが構造を決定付けている。なので、マクロ構造の本質は「どのような順序か?」ということによって代表される。


■文章構成の根幹

文章を構成する際に、最も重要なものはマクロ構造である。つまり、C-D-ACや、P-D-C、P-Dといったセミマクロ構造の文章のソート順は何か?ということである。

セミマクロ構造には、それ自体を単体でまとめる場合、いくらかの自由度が存在する。しかし、それらが連なる場合は、その前後のつなぎ方には一定の制約が出てくる。なぜならば、C-D-AC、P-D-C、P-Dなどのセミマクロ構造のDの前後、C、AC、Pは他のセミマクロ構造との接続部分になっているからである。


これは、大規模な文章を構成する際に、1つ1つのセミマクロ構造をオブジェクト化して考えることはできないということを意味している。つまり、大規模な文章を構成する際に必要なのは、要素のオブジェクト化ではなく、接続部分を決定付けるマクロ構造のオーダーを決定することである。


大規模な文章を構築することは、大規模なゲシュタルトを構築することに等しく、全体が決まらなければ部分が決まることは無い。

そこで大規模な文章の構成順は基本的に次のようになる。

Dの決定(内容の決定)

マクロ構造の決定(ソート&オーダーの決定)

セミマクロ構造の決定(接続部分の決定)

2012年12月11日火曜日

【ストーリー解析】ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q


2012/11/17に公開された映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のストーリー解析。


*もちろん完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。


■基本情報

企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明

非常に大規模なので、詳細はwikipediaにゆずる。
- http://ja.wikipedia.org/wiki/ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

同時上映 特撮映画「巨神兵東京に現わる」

■声優情報

基本メンバーはいつもの通り。同じメンバーでやれるのはいいこと。

碇シンジ:緒方恵美
渚カヲル:石田彰
アヤナミレイ(仮称):林原めぐみ
式波・アスカ・ラングレー:宮村優子
真希波・マリ・イラストリアス:坂本真綾
葛城ミサト:三石琴乃
碇ゲンドウ:立木文彦

個人的には、鈴原トウジの妹役で沢城みゆきが出ていてテンションが上がった。
あと、大塚明夫も出てる。

林原めぐみは同時上映の「巨神兵東京に現わる」のナレーションも担当。
緊張感のあるいい演技だった。
でも、巨神兵がビームを出すところで「ドラグスレイブ!」と叫びそうになった。

■あらすじ

wikipediaの記事がよくまとまっているので、そちらを参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B1%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%B2%E3%83%B3%E6%96%B0%E5%8A%87%E5%A0%B4%E7%89%88:Q#.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.BC.E3.83.AA.E3.83.BC


■ドライバー

まず、メインドライバーは以下の4つ。

L-F:碇シンジが、元ネルフメンバーに拒否される。
L-L:打ちひしがれたシンジが、カヲル君に優しくされてやる気を取り戻す。
L-F:元気が出たシンジはエヴァに乗って再び世界を取り戻そうとするが失敗する。カヲル君も死ぬ。
E-G:フォースインパクトが引き起こされそうになるが、カヲルが阻止する。

一方、サブドライバーにあたるものは、次のようなものがある。

E-G:葛城ミサトら、反ネルフ組織「ヴィレ」のメンバーが初号機および碇シンジの奪取に成功する。
E-G:「ヴィレ」の艦艇「AAA ヴンダー」が、なんかよく分からん使徒っぽいものを撃破。
P:14年後の未来の設定の紹介。(ニアサードインパクトのこと、シンジの母のこと、レイのことなど。)
L-F:シンジは綾波を助けたものだと思っていたが、実は助けられてなかったようだと判明した。

また次回への伏線として、次のようなサブドライバーもある。

E:碇ゲンドウは何かを画策している。
L:アスカはシンジを気にかけている?
P:アヤナミレイ(仮称)は自我に目覚めようとしている?


ストーリーの具体的展開は次の通り。

E ヴィレの率いるエヴァ2号機(アスカ)、エヴァ8号機(マリ)が、使徒っぽいものを撃破。*1)

G 初号機および碇シンジの奪取に成功する。

P 碇シンジは目覚めて安堵するが、どうも周りの様子がおかしい。

E ヴィレの一団が、使徒っぽいものに襲われる。*2)

LF シンジはエヴァに乗って戦おうとするが、葛城ミサト、赤木リツコらに冷たく拒否される。

G エヴァ初号機を用いた、ヴィレの新型艦艇「AAA ヴンダー」の活躍により、使徒っぽいものを撃破。

P シンジは、今が14年後であることや、助けたはずの綾波レイが見つからなかったこと、エヴァに乗ったら死ぬ首輪を装着されていることを知る。*3)

E(シンジから見ればL)ネルフのエヴァMark.09(搭乗者:綾波レイ)がヴンダーを襲撃し、シンジを連れ戻しにくる。*4)

P ネルフに戻ったシンジは、碇ゲンドウにエヴァに乗れと言われる。また、同時に同乗パイロットである渚カヲルと出会う。

F シンジは、綾波レイ(実は別のクローン)に心の拠り所を求めるが、当然あまり相手にされない。

L ネルフでの空虚さの中でカヲル君のピアノに惹かれはじめる。

L カヲル君はとっても優しくて、一緒にピアノの練習とかして仲良くなる。

P(E) シンジはカヲル君に連れられてニアサードインパクトの現場に行き、シンジが初号機を覚醒させたことが原因で、第3新東京市が壊滅したことを知る。

P(F) 冬月がシンジに、綾波レイが母ユイのクローンであることを話す。シンジは、自分の知る綾波を助けられなかったことを知る。

L 自暴自棄になっているシンジの元に最後の拠り所であるカヲル君が来て、第13号機がロンギヌスの槍とカシウスの槍を手にすれば世界をやり直せると説得する。

L はじめは拒むシンジだったが、カヲルがシンジの首輪を自身に移すと、その優しさに打たれてエヴァに乗ることを決める。

L エヴァ13号機に乗り込んだシンジとカオル、護衛のMark.09(アヤナミレイ)は、セントラルドグマ最深部へ辿りつく。

E しかし、そこには2種類の槍ではなく、2本のロンギヌスがありカヲルは困惑する。

EG そこにアスカの改2号機とマリの8号機が登場し、妨害工作を仕掛けるがシンジはそれを退ける。

L シンジは、不安を抱くカヲルの制止を振り切り、2本の槍を引き抜く。

F(E) しかし、不安は的中しエヴァは覚醒し上空へと浮上を始める。これはカヲルをトリガーとした「フォースインパクト」の始まりだった。

G(E) 上空にいたヴンダーは、それを阻止すべく13号機に攻撃を仕掛けるが、Mark.09の妨害により失敗する。
| |
P(G) 改2号機がMark.09の迎撃に当たるが、結局共倒れになり双方ともエントリープラグで脱出する。 

G カヲルは自身がフォースインパクトを止めると言い、二本の槍で13号機自身を貫く。

F それと同時に、首輪が発動しカヲルは絶命する。シンジは激しくショックを受ける。

G さらにマリにより、シンジのエントリープラグが強制射出され、フォースインパクトが未遂に終わる。

P(L)先に射出されていたアスカが、すねていたシンジをエントリープラグから引きずりだし、救出可能圏内まで歩き始める。また、それにアヤナミレイも加わる。

(最終作につづく)

注釈)
*1) 正確には、初号機はネルフにより衛星軌道上に封印されており、使徒っぽいものの正体は、自動防衛システム「コード4-A」および、「コード4-B」という設定らしいのだが、視聴者はそこまで分からない。
*2) ネーメシスシリーズというらしいが、何なのかはよく分からない。
*3) この時点ではよく分からないが、後にエヴァを覚醒させる(インパクトのトリガーとなる)と発動する仕組みであることが理解される。名前はDSSチョーカー。
*4) この時点では、シンジは前作で助けた綾波が来たのだと思っている。

■マクロストーリー

マクロに見ると今作の最大のストーリー構造は、

①シンジの絶望、希望、そしてまた絶望

と見ることができる。

まず、ストーリーの前半では、シンジが旧ネルフ関係者から徹底的に拒否される。(信頼していた葛城ミサト、赤木リツコ、アスカ、成長して再登場したトウジの妹など。)そこで、シンジの心の拠り所は、前作で助けた(と思っている)綾波へと向かうが、その助けようとした行為が悲惨なニアサードインパクトを引き起こしたこと、しかも、助けたはずの綾波すら助かっていないことなどを突きつけられ、それもまた絶望に変わる。そこに救済の使者として、カヲルという存在が出て来るのだが、結局フォースインパクトの開始、カヲルの死という最悪の結果に終わる。

細かく言えば、絶望→希望→絶望→希望→絶望となんともブンブン振り回されている。最後のアスカの助けを希望と捉えると、最後に少しだけ希望が見えたということになるのかもしれない。

ともかく、戦闘シーン以外では、時間のほとんどがシンジの心理描写に割かれており、映画館のポスターがシンジとカヲルというのもうなづける。

また、もう一つの重要な構造は

②とにかくフォースインパクト事件を起こす必要がある

ということだ。本作を見て、

1.旧ネルフ職員達はそこまでシンジを拒否するだろうか?もっと同情的なのでは?
2.カヲル君に説得されてエヴァに乗ったのに、カヲル君の言うことを聞かずに槍を抜くだろうか?

という疑問がわいた人も多いと思う。前作ラストでミサトさんは、綾波を助けようとするシンジに「行きなさい、あなた自身の願いの為に!」みたいなこと言っていたし、サードインパクトを起こしたからって冷たすぎる。カヲル君にしても、シンジにとってカヲル君は自分を導いてくれた存在であって、どちらかというと従属的であったはずだ。

このようなストーリーとキャラクターの不一致は、今作のストーリーの中でフォースインパクトが強力な「規定事項」であることを強く示唆している。要するに、キャラクターの整合性を犠牲にしても、達成しなければならない展開だということだ。(もちろん、うまいシナリオライターなら両者を一致させるのだが。)

この点から、フォースインパクト事件は、単なる演出上の盛り上げではなく、最終作、あるいはエヴァ4部作全体を通してのマスターピースであると推測できる。

■最終作のドライバー予想

そうなってくると、やはり最終作の焦点は、「ゲンドウの狙いは何か?」ということになる。サードインパクトの前に、ゲンドウは「初号機覚醒を早めなければならない」と言っていたし、冬月も「やはりシンジとレイで初号機覚醒は成った」というような発言をしている。今作でも、フォースインパクト前にカヲルが「そういうことか」というようなことを言っているし、フォースインパクトがゲンドウらによって画策されていたのは確定的だ。

14年の時を経て、旧ネルフ職員達が反ネルフ組織として活動しているのもそれを阻止する為というのは合点がいく。

ゼーレの最終目的は「人類補完計画」かもしれないが、ゲンドウらは明らかに別の目的を持っている。それが他作同様に「死んだユイにもう一度逢うこと」なのか、「ユイの復活」なのか、「ユイのいる世界の創造」なのかは分からないが、最終作のメインドライバーは「ゲンドウの狙いとその阻止(E-G)」である可能性は高い。今まで、その布石は十分に置かれて来たはずだ。

アダムスとリリスは何なのか?
使徒とは何なのか?
エヴァとは何なのか?
エヴァの覚醒によって何が起こるのか?
2本の槍の使い道は何なのか?
ネブカドネザルの鍵はどう使われるのか?

前作破の中で、ゲンドウはシンジに「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない」と発言している。もちろん、これは一般論を言っているのではなく、その「願望」こそが、ゲンドウの狙いであり、ストーリーの核心であることを視聴者に伝えている。

この発言からは、その願望が「人類補完計画」というような人類規模の願望ではなく、個人的な願望であるということも感じられる。(もし、人類規模の願望であれば、「自分の願望」という言い方はしないだろう。)ゲンドウにとって重要な「ユイ」に関係することは確定的だが、どのような形でそれが実現されるかは不明である。

しかし、ごく単純なストーリー展開から言えば、それに必要な「あらゆる犠牲」はシンジや旧ネルフ職員達には到底受け入れられないものなののはずだ。そうでなければ、ストーリーにならない。例えば、前作でゲンドウが3号機に取り込まれたアスカを見捨てたことを思い出して欲しい。これがもっと大規模に起こるのだろう。

結果としておそらくゲンドウは死ぬことになるだろう。生き残ったエンディングが想像できないし、悪役は何らかの形で退場せねばならない。悲惨な死ではなく、ある程度願いを全うした上での死というのが可能性としては高い。

さて、最終作のストーリーを推定する上でもう一つ重要なことを指摘しておかなければならない。それは、ヱヴァンゲリオン新劇場版の主人公はあくまでシンジだということだ。序、破、Qのすべてがそうであるし、最終作も例外ではないだろう。Qの最後に腑抜けになっているシンジだが、最終作ではまた何らかのきっかけによって持ち直すはずだ。

ここで重要になってくるのが綾波レイの存在だ。Qの中で、冬月がシンジに「レイは初号機のコアに取り込まれた」と説明しているが、この説明にはストーリー上の疑問が残る。破で壮大に持ち上げたはずの綾波レイがこのままフェードアウトするとはとても思えない。Qに登場した、アヤナミレイ(仮称)が自我を持ち始めている点から言っても、それとリンクする形で復活する可能性がある。つまり、アヤナミレイ(仮称)に綾波レイの「魂」が同期する形での復活、あるいは、アヤナミレイ(仮称)の犠牲の上になりたつ、綾波レイとの再会である。シンジをやる気にさせるには、十分な要素だ。

これをゲンドウの狙いと組み合わせると、必然的に、ゲンドウの狙いとシンジの希望(=綾波を助けること)は排他的でなければならない。そして、そのキーとなるのが肉体を失った綾波レイの魂ということになる。

父と子、ユイとレイ、過去か未来か、これらの対称性は非常に良く出来ている。そしてセオリーとしては、子が、ヒロインが、未来が勝つ。

もちろん、それほど単純でなければ、最終的にはレイも失われ、納得の悲劇=シンジが大人になる的な展開で幕を閉じるのかもしれない。
その場合は、レイを救うこと=世界が滅びることになっている可能性もある。それならば、Qの時点で人類補完計画、あるいはゲンドウの狙いを知っているであろう葛城ミサトがシンジに冷たくあたる理由が説明できる。シンジがレイを救おうとすれば世界が滅んでしまうからだ。

細かいフラグはかなりの数が残っているが、メインドライバーは以上のようなものが濃厚だ。
細かいことを言い出すとキリが無いのでこの辺で止める。



ヱヴァ最終作はとても楽しみだ。期待している。

2012年7月22日日曜日

【ストーリー解析】「おおかみこどもの雪と雨」


2012/7/21に公開された映画「おおかみこどもの雪と雨」のストーリー解析をする。


*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。



■基本情報

監督・原作 - 細田守
脚本 - 細田守、奥寺佐渡子
製作 - スタジオ地図/おおかみこどもの雨と雪製作委員会

細田守監督によるオリジナル長編アニメの第二作目。脚本は「時をかける少女」、
「サマーウォーズ」を手がけた奥寺佐渡子と細田守。おそらく、大まかなストーリーは原作者でもある細田が考えたのではないだろうか。

■声優情報

主に俳優、女優などを起用。

花 - 宮崎あおい
彼(おおかみおとこ)- 大沢たかお
雪 - 黒木華、大野百花(幼少期)
雨 - 西井幸人、加部亜門(幼少期)

突然、林原めぐみが出てきて気になってしょうがなかった人もいるかと。「ゲド戦記」に出た菅原文太も出演。

■あらすじ

主人公である花が「おおかみおとこ」との間に授かった2人の子供を懸命に育てる話。ストーリーは公式のあらすじでほとんど語られており、細田守はあまり隠す気がないらしい。一応のネタバレは、姉の雪は人間として、弟の雨は狼としての生活を選択すること。

形式としては雪のモノローグであり、映画の冒頭から要所要所で雪の「語り」が入る。この形式には、声の主が雪であると観客に気がつかせる一方で、「雨との別れ」を示唆する高度な狙いがある。雨がおぼれたシーンで「ひょっとして雨は死んでしまうのでは」と思った人も多いはず。

■ドライバー

メインドライバーは、

1.花が子供達の成長を見届ける(L-F-L)
2.雪が人間としての生き方を見つける(L=E-G)
3.雨が狼としてのの生き方を見つける(L=E-G)

の3つ。

サブドライバーとしては、

1.花とおおかみおとこの恋(L-L)
2.田舎ぐらしを近所の人に助けられる。(E-G)
3.山で滑落した花を、雨が助ける(E-G)

などがある。

全体の構成は次の通り。

L 花は大学の授業に潜っていた「彼」に恋をする。

L 花と彼の関係は次第に深まっていく。

E(L)彼は自分が「おおかみおとこ」であることを打ち明ける。

G(L)花はそれを受け入れる。

P 花と彼の間に長女「雪」が生まれる。

P 花と彼の間に長男「雨」が生まれる。

E 彼が不慮の死を遂げる。

L 花は二人の子供を育てようと決心する。

EG「おおかみこども」であることを隠しながらの生活に限界を感じ、田舎に越す。

E 収入が無く、野菜も上手く育たない。

G 近所の人の助けで、生活が軌道に乗る。

P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。

P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。

P 雨は、学校に溶け込めないでいる。

P(EG)雨は川で溺れそうになった事故を通じて、自然の世界に惹かれていく。

L 雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。

E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。

G 花と雪が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。

EG 雪は学校を嫌がったが、草平が根気よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。

P 雪と雨が、おおかみか人間かをめぐって対立する。

P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。

F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。
| |
P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。
| |
E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。

P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。

P 草平は、親の問題を打ち明ける。

G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。

L 草平は、その気持ちに応える。

G 雨は花を助ける。

F 雨は、森へと旅立つ。花はそれを止めようとする。

L 雨が旅立ち、咆哮。花は、その姿に子供の巣立ちを確信する。

P エピローグ

マクロに見ると全体の構成としては、4つの物語が展開されている。

①花と彼の出会い
花と彼は恋に落ちる。彼は不安がりながら「おおかみおとこ」であることを明かすが、花はそれを受け入れ、2人は「雪」と「雨」を授かる。(L-L-F-L)

②雪の成長譚
雪は初めは活発で狼らしく走り回っていたが、学校に行き始めてから人間の輪から外れてしまうことを恐れ始める。それがきっかけで、雪はささいなことから草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。しかし、草平はそれを理解し、雪がおおかみであるという秘密を隠し通して、雪を「おおかみ」であることの葛藤から解き放つ。
(L-E-G-F-L)

③雨の成長譚
雨は初めは引っ込み思案で甘えん坊だったが、川で溺れた事件(狩りの成功体験)をきっかけに、次第に自然への興味を深めていく。雨は、森のきつねを先生とよび慕う。しかし、大雨により先生が死に、その後を継ぐことを決意する。(P-L-E-G)

④花の子育ての物語
花はとにかく一生懸命子供たちを育てていく。しかし次第に、人間らしくしようとする雪と、野生に目覚めていく雨とのギャップに不安を感じ始める。おおかみでも人間でもどちらでも選べるようにと思っていたはずなのに、花には雨の生き方を受け入れる準備ができていなかった。初めは雨を引き止めようとする花だが、最後には狼として立派に成長した雨の姿を見て覚悟を決める。それは、花が「母」としての最後の成長を遂げた瞬間だった。
(L-F-E-G-L)

■演出

まず冒頭から度々登場する、実写にかなり近い作画に目を奪われる。特に背景などは実写とアニメの中間のようだ。多くのシーンでCGも使われている。舞台が自然豊かな田舎ということもあり、「トトロ」や「もののけ姫」などのジブリ作品と比較をしたくなる。怪しさや誇張という点から見ると最近のジブリよりもあっさりしており、「トトロ」のそれに近い。
題材が「おおかみこども」ということもあり、「崖の上のポニョ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」にもつながる部分もある。

キャラクターなどの主線部については、走るシーンが多くよく動く。あと、多分、子育てをしている親にとっては「あるある」といったネタが多いのだろうと思う。

おそらくコンセプトは、「自然美」、「狼としてのリアリティ」、「リアルな子育て」といったところか。

■総評

この映画の対象年齢は、子供のいる30代とその子供かもしれない。親は泣いて、子供は狼を見て喜ぶのだろう。子供のときは分からないが、大人になって本当の意味が分かる映画になっているように思う。

映像美は、現代アニメの最高峰と言っても過言ではない出来栄え。とにかく背景と、動きがすごい。しかし、ストーリーには若干の問題がある。まずストーリーが長すぎる。ひとつひとつのエピソードが単発になっており、全体としての流れを欠いている。農作業、自然観察員、川で溺れるくだりなど、メインドライバーと関係の薄いエピソードは除くか、メインドライバーと絡ませる必要があっただろう。

あと男としては、雨にもっと活躍して欲しかった。

■いくつかの謎

設定について、微妙な点が結構ある。

①おおかみおとこの名前
なぜか彼(おおかみおとこ)には名前が無い。というより、おおかみおとこなのに設定がほとんど明らかにならない。

②おおかみおとこの死の謎
死なないと話が進まないのは分かるが、全くの謎というのもどうだろう。

③檻の狼の意味
檻の狼は伏線でも何でもない。

④無口な先生
先生がきつねってどうなの。しかも、全然しゃべらない。どうも知能はあるらしいが、設定が謎。

⑤雪を迎えに行かなくてもいいの?
雨のことを山に探しに行く花の行動に違和感。もう少し、どうしても追いかけなければならない演出が必要だったのかも。

⑥何も言わずに旅立つ雨
何か言っても良さそうなのだが、何も言わない。また、花とは何となく別れを交わしたが、雪とはさっぱり。

⑦雨は家近いんだしたまに帰ってきたらいいんじゃないの?
だよね。

⑧雨って結局なにしてんの?
山の自然観察員みたいなもん?

⑨戸籍とか??
多分なんとかなってるんだろう。

■ストーリー改善案

この作品のストーリーの問題点は、ひとつひとつのエピソードがばらけていることにある。一応、全体を貫くドライバーは、子育てと子離れ(L-F-L)ということになるのだが、だとすると野菜がうんぬんは長すぎた気がする。また、父親であるおおかみおとこのキャラが薄すぎて、役に立っていない。
そこで、

①花が雨と彼をダブらせる描写を入れる。
例えば序盤の変身シーンと、後半の雨の変身シーンをダブらせる。前半で彼に
花をおんぶさせておき、後半で雨が花をおんぶするシーンにつなげるなど、雨の成長を描く。

②花の言葉の中に、彼の言葉を入れる。
雨と父親の接点が無いので、花の言葉の中にそれを織り交ぜておく。視聴者には、それが雨に受け継がれていることが悟れるように。おまじないでも良い。
候補は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とか。彼の口癖にしておけばいい。

③雪が怪我をさせたとき、それを雨がかばう。
しかし、それが原因で雪と雨の溝は深まり、雨は学校から距離を置く。

④溺れたとき助けてくれるのは「先生」
その方が、雨が森に惹かれるきっかけになる。

⑤雨が雪を追い越す描写を入れる。
ケンカがただのケンカになっているので、その後に雨が雪を助ける描写を入れる。雨には「母さんを頼む」ぐらいは言って欲しかった。

つまり、後半のドライバーは「急成長する雨」を主軸に置く。


これらを踏まえると、次のようになる。

(前半は同じ)

P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。

P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。

P 雪は雨を学校に誘う。

E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。

P それを雨がかばう。

G 花と雨が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。

P 雪は花に本当のことを話す。でも、草平には本当のことを言えないでいる。

EG雪は学校を嫌がったが、草平が今期よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。

P 溺れた事件をきっかけに、雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。
花は事件と彼の死を重ね合わせて、大切なものを失うことに恐怖する。

P 雪と雨のケンカ。

F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。

P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。

P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。

E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。

P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。

G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。

L 草平は、その気持ちに応える。

P 雪は異変に気がつき、山に花を探しに。

G 雨は花を助ける。花は彼とのをだぶらせ、雨の成長を感じ取る。

P そこに雪が駆けつける。

F 雨は、森へと旅立とうとする。花はそれを止めようとする。

L 雨は、雪に花を託して旅立ち、咆哮。花は、その姿に雨の巣立ちを確信する。

P エピローグ

これで、ドライバーの関連性が確保され、ストーリーの強度が増した気がする。

2012年7月13日金曜日

iPadは2人用(笑)。

最近ひょんなことから、『新しいiPad』を使っている。わりと普及しつつあるiPadだが、私の周りではまだ購入するかどうか悩んでいる人が多い。その多くは理由として、

「5万円は高い」
「回線の契約?が煩わしい」

などの購入障壁を挙げる。しかし、よくよく話を聞いていくと、

「結局、iPadで何が出来るのか分からない」

というのが購入に踏み切れない理由のようだ。お察しの通り、数ヶ月前まで私もその一員だった。

結論から言えば、iPadは素晴らしい。しかし、それは私がそれを手にするまで想像したこともなかった意味での素晴らしさだ。

おそらく、iPadの所有者は「iPadで出来る事」を次のように挙げるだろう。

「ウェブサイトが見れる」
「メールをチェックできる」
「写真が撮れる」
「アプリが沢山ある」
・・・

しかし、そこに目新しさはない。それはスマートフォンで出来ることばかりだし、家にはパソコンがある。このような説明では、購入検討者がiPadにいまいち魅力を感じられないのもうなずける。
購入検討者が本当に知りたいのは、

「iPadにしかできないこと」

なのだから。

iPad発売当時、スティーブ・ジョブズはiPadのプレゼンテーションの中で、iPadが最適な環境は「リビング」だと言った。当時、それを見ていた私は『寝転がってインターネットが出来る』ぐらいにしか理解していなかった。しかし、今はその意味がよく分かる。

私たちは、パソコンや、携帯電話を見るとき、その「中身」にばかり気をとられているかもしれない。しかし、iPadが変えたのは、その「中身」ではなく、それを見る「環境」だ。

例えば、旅行代理店や、携帯ショップに行ったことがあるなら、そのとき資料がどのように提示されるかを思い出してほしい。きっと、机の上に無造作に広げられ、必要に応じて、あなたの前に差し出されるはずだ。
それは、垂直に立てられたディスプレイや、携帯画面では実現できないだろう。

iPadの特徴である、軽量性、平面性、美しいディスプレイ、そして機能的なカバーはすべて、それを見る「環境」へ向けられたものだ。

私たちはいつから、iPadが「1人用」だと錯覚していただろうか?

例えば、単に「写真が撮れる」という機能に着目すれば、iPadと携帯電話、コンパクトデジカメの間に差は無いだろう。しかし、そこには「1人用」か「2人用」かという決定的な差がある。

携帯電話やコンパクトデジカメに慣れた人は、「どうしてそんな大きなもので撮らなければならないのか?」と言うだろう。しかし、

「ねえ、こんな写真をとったよ!」

という気持ちを伝えたいとき、優れている媒体は一体どっちだろうか?

「2人用(多人数用)」という視点が入ったときはじめて、iPadが写真機であると同時に「アルバム」であることに気付かされる。

持ったり、回したり、揺れたり、角度をつけたり、あらゆる動きにiPadはフィットする。それは、もちろん「1人用」にも適しているだろう。しかし、ジョブズが「リビング」と言ったとき、彼の「リビング」には何人の人がいたのだろうか?

1人のときもあれば、家族がいることも、そして友人が訪れることもある。それが彼の言う「リビング」だったのではないかと思う。

だから、iPadが本領を発揮するのは、テーブル、ソファー、移動中、外出先など、その姿勢が固定されない場所、そして、それを2人以上で見る場合だ。それが「リビング」に最適という意味なのだ。

これを読んでいる皆さんはひょっとするとiPadに、文章や考えをまとめたり、やり残した仕事を外に持ち出すデバイスとしての期待をしているかもしれない。

しかし、その期待はいい意味で裏切られるだろう。あなたはiPadを持ったとき、あまりに多くの「見やすく、見せやすい」場面があることに気がつくだろう。

それが、iPadにしかできないことであり、iPadの魅力なのだ。

私たちは、パソコン、携帯電話を通じて、「1人用」の世界に慣らされてきた。しかし、私たちはそろそろその偏りから解放されてもよいだろう。
「2人用」が作るのは、より身近になった電子デバイスの時代だ。その先駆けがiPadであり、この後に続くであろうタブレット端末の世界なのだろう。

2012年5月8日火曜日

定量問題とその解決


2011年は、原発事故問題やTPP問題など、定量的な判断を伴う問題が注目を集めた年だった。放射線は、どこまでが安全なのか?TPPはいくら儲かるのか?このような問題は、その定量的な判断を抜きにしては答えを導くことができない。

ある主張、あるいはある問題の理解には定性的なものと定量的なものがある。

まず、ある論理的主張A→Zには、AからZを導く際の道順A→B→…→Zが必要である。
ざっくり言えば、これが定性的な関係にあたる。

数学では、論理展開は公理や定義とその組み合わせによって行われるので、その道順の真偽値は100%決まる。これを単調論理という。
しかし、日常的な論理(非単調論理)では、各主張X→Yの真偽値は一般に不明である。そこで、X→Yの真偽についての確率的判断が必要であり、それが定量的な関係にあたる。

例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは論理の鎖としては成り立つが、その確率的判断は信頼できず、論理的主張としては弱い。つまり、どのくらいの風が吹けば桶屋がいくら儲かるのか?という定量的な側面が語られなければ、本当に「風が吹けば桶屋が儲かる」のかは分からない。

このような、確からしさや量の問題を「定量問題」と呼ぶことにしたい。今回の興味は、この定量問題がどこから来るのか、そしてその解決法である。

さて話を進める前に、はっきりさせておきたいのは、これは文科系とか理科系とかの差にはほとんど関係がないということだ。

文科系だろうが、理科系だろうが、人は普段、定量的判断をしながら生活している。なぜなら、日用品、食料品、衣料品などの買い物をするには、その判断が必ず必要だからだ。良いけど高いものと、まあまあだけど安いものがあれば、当然どちらを買うか考える。
そこに文科系、理科系の違いはない。

つまり、普通の人には日常的な生活の中で、定量的判断が身についていると考えるべきだろう。

しかし、ではなぜ定量的判断が身についている人々の間で、原発事故問題やTPP問題が起こるのか。それは、おそらくそのような問題が普通の人々の持つ定量問題の「適用範囲」から外れているからである。

例えば、普通の人に、「こちらの服とあちらの服のどちらが良いですか」と言われたら、定量的に値段や生地、デザインからどちらかを選ぶことが出来るだろう。しかし、「TPP賛成ですか、反対ですか」と言われたら、「そもそもTPPって何?」とか「よくわからないけど反対です」としか答えようがない。

つまり、普通の人にとって、原発事故問題やTPP問題は、内容がめんどくさすぎる問題であって、定量問題などという捉え方をする対象に入っていないのだ。

ある問題が、適用範囲から外れてしまった場合、その問題への対応はおおよそ次のようなパターンがある。

①無視する
②誰かの意見にのっかる
③アンチになる
④情動的に判断する

また、これらの総体として衆愚政治が生まれる。これは、日本のような民主主義国家にとっては根本的な問題であり、これを解決するには、その問題を定量問題として一般の人の適用範囲に入れてやる必要がある。

そのための方法は、おおよそ次のようなものだ。

①データを用意する
②論点を整理する
③○○派に分解する
④○○派と××派を交流させる

まず、議論の土台としてデータが無ければ話にならない。(これは数値データだけでなく、文章なども含む。)データ無しに議論することは、大いなる無駄である。データが出た瞬間に、すべてひっくり返ってしまうからだ。必要なデータを出させるのは、株主や、政治家、あるいはハッカーの仕事である。

次に、論点をある程度整理する必要がある。これは、有志で行う。ある程度の大局観を持たなければ、何が問題で、どこが論点かは分からない。また、このとき○○派を定義する。

その後、全員を○○派に分解する。少なくとも、自分が何派に当たるのかが分かるように、チャートのようなものを作るのが望ましい。いい例えかは分からないが六星占術とか、動物占いのようなものだ。アイドルで誰が好きとか、いわゆる俺の嫁の選出も同じである。ここからは、全員が参加できる難度になる。

そして、最後に○○派同士を交流させる。これは、勧誘合戦といってもいい。その勧誘の過程で論点についての議論が行われる。ただし、ここには利害関係も含まれており、必ずしもディベート的な応酬だけが繰り広げられるわけではない。話合いが決裂すれば、それは戦争にならざるをえない。結果的に、ベクトルは新規○○派獲得や、教育へと向いていく。真に争点となるのは、そこである。

ある問題について、その有識者や関心のある人は①と②をやるのが望ましい。そのとき必ずしも、○○派であることを明言する必要は無い。それは普通の人に「誰かの意見に乗っかる」ことや「アンチになる」ことを促す行為だからだ。
そして、普通の人(有識者でもなく、関心もない人)は③を、さらにその中で暇な人は④をやると良い。

このようにして、めんどくさすぎる問題は、普通の人の定量問題の適用範囲に入る。特に、①②の役割は重要であり、定量問題を解決するには、それを担当する人の数が増えることがポイントとなる。

これらが、2chをはじめとしたネット上でうまくいけば、日本の風通しも少しはよくなるのではないだろうか。

2012年1月31日火曜日

100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない

今回は珍しく世間話(政治)。なんとなくこのブログに合わない気もするが、一応載せることにした。

---

「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」

1月28日に放送された「朝まで生テレビ」を見ていて思ったことがある。2012年の幕開けを福島で行い、その第2弾を注目のあつまる大阪で行う。しかも、渦中の橋本市長が出演というあたりに、田原氏の2012年への意気込みを感じる。

私はかねてから政治との距離感を掴めずにいた。そういったニュースや動画は見るものの、そこには一定の違和感がある。そこで展開される議論や内容自体は新鮮にうつるが、どうも熱が入らないのだ。

経済、福祉、税金など私たちがそこで扱われている問題の当事者であることは確かだ。しかし、そこに実感がわかない。もちろん日本国民なので投票権はあるが、その時々になんとなく候補者を選んでいるだけだし、税金の使い道がどうのと言っても、もともと収めている税金の額はたかがしれている。

ネット民とされる人々が利用する2チャンネルにはことあるごとにスレが立つが、そのレスにもあまり関心が無い。自分のことながら、なぜなのだろうかと普段から疑問に思っていた。

しかし、「朝まで生テレビ」を見ていて気がついたことがある。見た人はご存知のように、番組は終始橋本市長のペースで進んだ。それは、橋本市長が人間的に優れているとか、相手の論客がバカだとかそういうことではないと思う。単に橋本市長と論客では大阪への「腰の入れ方」が違うのである。単に両者が持ち出すデータの量をみてもその差は歴然としていた。

橋本市長は弁が立つ。しかし、それはおそらくタウンミーティングなり、部下との議論なりで積み重ねてきた結果だろう。大阪の問題を整理し、論点を洗い出し、解決策を考えている。逆に言えば、大阪以外のことを聞かれてもそんなに分かり易くは説明できないだろう。毎日、大阪のことを考えているから、大阪のことをあれだけ説明できるのだ。

橋本市長は「対案を示してください」とか「案は出していますから、問題があるなら言ってください」などと番組の中で繰り返した。日々、大阪について考え、沢山のスタッフと実務を行っている男に一体誰がそんなものを示せるというのだろうか。

大阪という都市を知らないわけではない。しかし、私たちが真面目に日々考えているのは、自分の「個人的な問題」あるいは「仕事上の問題」なのである。私たちにとって大事なのは、「個人的な問題」であって、自分の住んでいる街の行政体にだってあまり興味が無い。それは極論してしまえば、大阪について考えること、あるいは自分の住んでいる街について考えること、それは私の「仕事」ではないのである。

論客の先生方も、大阪で飯を食っているかというと微妙である。もちろん本などを出版されている方は反省する点があるだろう。とはいえ、批判本などは要するに批判することが仕事であって、大阪をよくしようとかそういう意識は無いように思う。先生方の興味はあくまで、自分の仕事の範囲の中であって、行政の長と組するほどの意識があるはずがない。大阪だけを特別視する時間も無ければ、労力もない。

2チャンネルの住人にしても、ツイッターでつぶやいている人にしてもそうだろう。誰が大阪の行政のことを考えて飯を食っているというのか。福島の人たちや、大阪の事業者、子供を学校に通わせる親などはかろうじて、仕事と関係があるだろう。元旦の福島の回にしても、住民の本気度はすさまじかった。しかし、それと仕事や生活が直接関係していない人の本音は「お金(税金)は払うから、よろしくやってくれ」ということではないだろうか。少なくとも私はそうだ。

無責任のように感じられるかもしれないが、それよりも「個人的な問題」や「仕事上の問題」が大事であって、それらを解決するからこそ、労働に付加価値が生まれGDPは上がることになる。ひいては税収アップにつながるのだ。

今回の放送で露呈したのは、「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」ということである。
演者の中で、本当に大阪の改革に興味があるのは橋本市長だけであった。田原氏にしても、その興味はジャーナリズムにある。別に大阪だけが特別なのではない。

そこで、私たちのとりうる立場は、少なくとも「複数の」興味のある者を見出すことであろう。本気で大阪の改革の矢面に立つのが橋本市長だけだから、独裁だのヒトラーだの言われてしまうのだ。国政にしても、増税に熱意を燃やす野田総理に「対案を示せ」と言われて出せないような論者では、話があらぬ方向にいってしまうのは当たり前である。

私たちには、私たちの「個人的な問題」や「仕事上の問題」がある。政治家や、ジャーナリスト、学者は「一緒に考えて下さい」というかもしれない。「それが日本のため、地域の為。最後はあなたが決めるんです」と。しかし、私たちは忙しい。「それで直接恩恵を受けるのはあなたではありませんか?」といいたくなる。私たちがもっと興味があるのは、「個人的な問題」や「仕事上の問題」でしかないのである。なぜなら、それは「私」が解決するほかにないからだ。「私」以外にそれを考えてくれる人はいない。

逆に言えば、私たちが積極的に政治に関わるには、それを生業とするしかない。どこで活動するか、どこで仕事するか、何を仕事とするか、その選択の中で行政体とのかかわりは生まれてくる。そこで初めて、政治が「個人的な問題」や「仕事上の問題」になる。そうしたときに初めて、勝負になるのだ。

もしそうできないなら、少なくとも2人以上の「興味のある論者」を対決させよう。これはプロレスと同じようなものだ。ビックカードは、ファンの関心を引かなければ実現しない。ファンはそれを楽しめば十分だし、ビックカードなら当事者同士も勉強になるだろう。

私たちは広域の問題には無関心だが、ビックカードを実現させる力は持っている。それこそが最大限に譲歩した民主主義ではないだろうか。

2011年12月21日水曜日

対称性による類推について

ある概念を説明する際、それと似た概念をもって説明することを類推(アナロジー)という。

あるものの構成要素の数は、単純に、1か2か3か4か・・・と分類されるが、それらの数の一致をもって何かを言うというのは危険である。

あるものが似ているからと言って、それらが同じ性質をもつとは限らない。
類推が成り立つのは、それらが結果的に同じ法則に従う場合だけだ。(例えば、同じ方程式に従うなど。)

上位概念は蓋然的ないくつかの要素から帰納的に仮定され、演繹的に検証される。そのため、ある「似ている」ものを見つけると、それらが他の面でも同じ性質を持つと考えたくなってしまうものであるが、実際にはそういえることは少ない。

「似ている」ものの中でも特に「構成要素の数」は極めてありふれており、出会う機会が多いだけに注意が必要である。

「構成要素の数」の対称性には例えば次のようなものがある。これらのものを即座に結び付けてしまうのは誤謬である。これらはその「構成要素の数」以上の関連性が無いかもしれない。

これらを見て、「関係がある!」と思ってしまった人は、よくよく考えてみよう。「何が違うか」を考えれば、おそらくそれらの間に同じとは言えない反例が見つかるはずだ。

(ちなみに以下には対称とは言えないものも含まれている。)


■2の対称性

・男と女
・裏と表
・自と他
・有と無
・真と偽
・右と左
・光と影
・実数と虚数
・正と負
・生と死
・始まりと終わり
・天国と地獄
・物質と反物質
・賢者と愚者

■3の対称性

・XYZ
・クォーク
・ぐー、ちょき、ぱー
・R、G、B
・金、銀、銅
・固体、液体、気体
・カラーテレビ、自動車、クーラー
・タンパク質、炭水化物、脂肪
・神、イエス、精霊
・神、悪魔、人間
・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ
・魏、呉、蜀
・陸、海、空

■4の対称性

・加法、減法、乗法、除法
・4次元空間(x,y,z,t)
・A、G、C、T (DNA)
・東、西、南、北
・前、後、左、右
・春、夏、秋、冬
・地、水、火、風
・起、承、転、結
・風、林、火、山
・生、老、病、死
・ハート、スペード、ダイヤ、クラブ

2011年12月13日火曜日

知るとは何か

知るということについて、少し考えてみよう。

釈迦は苦しみは無明(簡単に言うと知らないこと)によって生まれると言った。では知らないほうが良い事というのはあるだろうか?何かを知ろうとするモチベーションは何だろうか?どのようなものから知れば良いのだろうか?また、効率よく知るにはどうしたらよいのだろうか?ところで、知識とは何だろうか?逆に忘れるとはどういうことだろうか?

結局、知るということはどういうことなのだろうか。それらを以下で解説する。


■知れば知るほど良いのか?

知って損をするということはあるだろうか?損をすることが無ければ、知識は無条件に得るべしということになるが、経験的には損の仕方は次の2通りがありそうだ。

①気分を害する。
②他者にとって都合が悪くなる。

①は、気分の問題だ。恋人の恋愛遍歴や、ある美談の裏話、まずそうな食べ物の味など、本当に知って良かったか疑問が残ることはある。「知らないほうが幸せだった」「知って損した」という言い方に代表される。知識はある物事の判断基準になる以上、論理的には知らないより知っていたほうが良いということが言える。しかし、論理の世界を外れると一概にそうとは言えない。

②は、秘密にあたるものだ。「秘密を知ったからには生きては返さん」のように、秘密とされる事柄を知った場合に起こる。場合によっては圧力をかけられたりすることもあるだろう。より広く言えば、権力者にとって不利な状況になるような知識ということになる。ただし、必ずしも被害がでるとは限らず、直接の被害が出るかは程度問題である。

つまり、論理的に判断すべき範疇にあって、権力者の直接の秘密にあたるものでないものであれば、知っているのにこしたことは無い。

■「知らない」ことが「知る」モチベーションとなる

知ろうというモチベーションは「知らない」ということから生み出されるように思う。なぜなら、「知っている」ことを「知る」ことには意味が無いからだ。(経済の言葉で言えば、限界効用が0ということになる。)「知っている」ことには価値がなく、「知らない」ことだけに価値がある。だから「知らない」ことを「知りたい」と思うわけだ。

しかし、注意が必要なのは、実際の知るべきかどうかの価値判断は、「知らない」ことではなく、「知らないと思われる」ことに基づいてなされるという点だ。本は読んでみなければ、何が書いてあるかは分からないし、食べ物の味は食べてみないと分からない。つまり、「知っている」かどうかは知ってみるまで分からないのだ。

だから、本当は「知らない」から「知りたい」のではなく、「知らない」と思うから「知りたい」のである。

そこで、「知っている」と勘違いしていることを正しく知るには、「本当に知っているかどうか」を疑うことが重要になってくる。そのためには、「知っている」ということを01ではなく程度で考えると良い。具体的には

①名前を知っている。
②内容を聞いたことがある。
③要点を説明できる。

の3段階で考えればよいだろう。③までいけば、「知っている」とみなしても良い。


■知識の優先順位は複数ある

さて、デメリットの無い知識はあればあるだけ良いと考えられるが、情報の収集や知識の修得には時間がかかるため、時間に見合わないと思えることや、無駄と思えることもあるだろう。そこで、どのようなことから知っていくべきかという取捨選択をする必要がある。では、その判断基準は何だろう。

列挙してみると次のようになる。

①ゴールとの合致
②好みとの合致
③他者の評価との合致
④脱線
⑤無作為

①は、ゴール(目標)に関係ありそうな事柄を優先するやり方である。これには、ゴールの設定が必要である。

②は、好みを優先するものである。それは知って楽しいということである。これは重要なことであるが、内容が偏りやすいという欠点もある。

③は、名著と呼ばれているものだとか、売れている本ランキングだとか、好みやゴールではなく、他者の評価の高いものを優先するやり方である。これは情報にある程度の信頼が持てる。

④は、当初の目的でないものにシフトしていくやり方である。これは、たまたま何かを見つけて世界が広がる可能性がある。簡単に言えば脱線するということである。

⑤は、無作為に選ぶということである。これは、意味が無い。無作為に選んで、重要な情報にあたる可能性は低い。(例えば、すべてのウェブサイトからランダムに1つのページを開くことを想像してみればよい。)

ちなみにナレッジダイビングでは、①~④をうまく複合している。

■知れば知るほど速くなる

優先順位と別に大事になるのが、収集、修得にかかる時間だ。この絶対スピードが速ければ優先順位をそれほどシビアにすることなく、網羅的に知ることが出来る。このスピードには3つの要素がある。

①文字を認識する速さ
②事前知識の量
③理解する速さ

①は、単純に読む速さである。特に言語で記述された情報、知識についてはこれがクリティカルに効いてくる。これは練習次第で極めて速くなるとされる。(実際に極めて速く読める人が存在する。)

②は、書いてある語句の意味が分かるかどうかである。例えば、wikipediaのアインシュタインの項には「アルベルト・アインシュタインは、『ドイツ』生まれの『ユダヤ人』『理論物理学者』。」と書いてある。この時、「ドイツ」や「ユダヤ人」、「理論物理学者」という語句が何を意味するかを知らなければ、この文章は「アルベルト・アインシュタインは、『とある国』生まれの『とある人種の』『とある職業の人』。」と言っているのと変わらない。つまり、語句について「名前を知っている」レベルでは読んだとしても、読めたことにはならない。逆に言えば事前知識が多ければ多いほど、このような無駄が無くなり、単位時間当たりに実質的に読める量が増える。

③は、事柄を理解する速さである。語句の意味が分かったとしても、その文章全体が何を意味しているかを理解しなければ、その内容を知ったことにはならない。そのため、情報の意味を理解する速さが重要となる。理解する速さは、抽象思考の訓練によって高めることができる。

■知識はネットワークである

知る対象、特にここでは知識について述べる。

知識というものは、それだけで独立したものは存在せず、必ずネットワークになっている。ある知識について説明するには他のものを持ち出すしかないということを思い起こせば良いだろう。これはある知識についての定義のネットワークであり、仏教の言葉で言えば縁起である。

あることを知るということは、それに付随するネットワークを探索することに他ならない。この探索手法は大きく分けて2つに別れる。

①下位概念の参照
②芋づる

①は、下位概念(外延)を網羅するやり方である。例えば、犬の犬種一覧からすべての犬種を調べるなどいうような調べ方である。ある限られた範囲を網羅したい場合に向いている。ただし、「あ」のつくものなど、必ずしも適切とは言えない様な上位概念もある。そのようなものは、各下位概念間の関係性が少ないため、上位概念の深い理解につながるとは考えにくい。

②は、概念の抽象度に関係なく、定義のネットワークを参照していく方法である。例えば、犬にまつわる事柄(動物、食性、人間との関係など)から別の項目に移る。犬→ペット→癒し、犬→生物→DNAなど、色々な方向にすばやく移動できる。この方法はネットワークの全体像を把握するのに向いている。また、予期せぬ発見も生まれやすい。これは相互定義のネットワークであり、連想とは若干異なる。

②の方法はナレッジダイビングで用いられる。

■知識は階層性を持つ

また、知識は抽象度の順に並べ替えると階層構造になっている。一見多種多様に見える知識も、上位概念のゲシュタルトが出来れば、ある共通性を持ったまとまりに見える。上位概念について成り立つことは下位概念にも成り立つため、より上位にある知識について理解すると適用範囲が広く有用である。

このような、階層的知識を得る手段としては2つの方法がある。

①帰納的
②演繹的

①は、ある下位概念を網羅することにより、そこから共通の上位概念導き出すものである。
②は、ある上位概念を用いて、その下位概念となるべきものを説明するものである。

これらの方法は一般には複合しており、プロセスとしては、まずいくつかの概念から導き出される上位概念を仮定し、その上位概念が、下位となるべき概念をどの程度説明するかという形で用いられる。つまり、上位概念は帰納的に仮定され、演繹的に検証される。

このようなプロセスを経て、ある知識についての理解レベルは「内容に触れたことがある」から「要点を説明できる」に到る。一説によれば、「要点を説明できる」レベルに理解した事柄は無意識によるバックグラウンド処理が可能になり、問題解決を圧倒的に助けると言われている。

■抽象度の高いものは忘れない

知識は、無意識が重要ではないと判断したものについては長期記憶に移行されず忘れられる。この長期記憶への移行は主に睡眠中に行われていると言われている。

忘れるということについては次の2つの考え方がある。

①記憶が定着しなかった。
②思い出せないだけ。

①は、定着のプロセスに問題があり、②は思い出すプロセスに問題がある。これらを回避するためには、それぞれに対応して次の手段がある。

①重要度を上げる
②思い出す

①は、定着されるよう無意識にとっての重要度を上げる手段である。人間はどちらかというと成功よりも失敗から学ぶ方が優位になっている。成功した事柄よりも、失敗した事柄の方が生存に関係する可能性が高いからだ。そこで、わざと間違えるというのが手段としてありうる。間違えるために「説明しようと試みる」ことも有効と考えられる。

②は、思い出すことによって、神経回路を強化することである。何度も思い出していれば、記憶を引き出し易くなる。

ただし、そもそも忘れるという現象は極めてありふれており、そこに神経質になる必要はない。ある本を読んだ後にその文章すべてを暗誦できるかを考えてみれば、短期記憶はほとんどが失われる性質のものであることが分かる。

その点を踏まえると、知識を修得する際に重要なことは、その細部ではなく抽象的理解である。これはゲシュタルトの構築とも言われる。抽象的理解をすることによるメリットは次のようなものがある。

1つめは、単にその記述量が少ないということだ。抽象的理解は短い言葉で表すことができ、覚えやすい。2つめは、抽象度の高い概念は、常に刺激されるということである。これは忘却の防止につながる。抽象度の高い概念は、その下位概念に帰納的、演繹的に関連付けられているため、下位概念が刺激されると、同時に上位概念も刺激される。それによって、抽象的理解は常に利用可能なものとして保持される。このような2つの効果により、抽象的理解は覚え易く、忘れにくい性質がある。

■知るとは知識ネットワークのゲシュタルト化である

以上のことをまとめると、知るということは、ある知識についてのネットワークを階層的に理解(ゲシュタルト化)することだと言える。そして、その抽象度が高ければその知識はよく保持される。また、その前提知識(ゲシュタルトの量)が、更なる知識の修得スピードを左右するため、知れば知るほど知識の修得効率は向上する。

2011年12月4日日曜日

【ストーリー解析】映画「けいおん!」

2011/12/3に公開された映画「けいおん!」のストーリー解析をする。


*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。


■基本情報

原作 - かきふらい
監督 - 山田尚子
脚本 - 吉田玲子
アニメーション制作 - 京都アニメーション

脚本はアニメ「けいおん!」および「けいおん!!」で十数話を手がけた吉田玲子。ただし、アニメ映画という性質上、独断でストーリーをつけられるとは思えないため、大まかな内容については話し合いで決められたと推測される。

■あらすじ

あらすじを簡単に言うと、卒業旅行でロンドンに行きつつ、最後はあずにゃんに曲(天使にふれたよ)をプレゼントするという内容。公式のあらすじで公開されていないのは、映画が『天使にふれたよ』にまつわるエピソードであるという点であり、これがいわゆるネタバレにあたる。

ドライバー

メインドライバー(主要ストーリーの根幹)は先ほど触れたように

1.卒業旅行でロンドンに行く(L)
2.あずにゃんに曲を贈る(L)

の2つ。TV版との関係で言うと、最終回「卒業式!」であずにゃんに贈られた劇中歌「天使にふれたよ」の裏話になっている。
(ちなみに時系列としては、唯たちの合格発表と卒業式の間の話である。TV版で放映された#22「受験!」#23「放課後!」の間にあたる。)

劇中では3つのライブシーンがあるが、すべてメインドライバーと独立して描かれている。ライブシーンは映画としての強度を高めるために加えられていると考えられるが、ストーリーとはほぼ関係がなく挿入間はいなめない。そこで、ライブシーンはサブドライバーとして扱うことにする。

サブドライバーも含めるとストーリー構造は次のようになる。

L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)

L それとは別に卒業旅行も計画する。

L ロンドンに行く。

P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
  (=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))

F ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。

P ★日本の文化フェスティバルに参加することになり、ライブをやる。

L 「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。

P ロンドンから帰国。

L ★最終登校日ライブを計画。

L ★最終登校日ライブをする。

L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。(ライブの前だったかな?)

L 卒業式に梓に曲をプレゼントする。

★はメインドライバーに関係のないサブドライバー。

マクロに見ると
 Lーーー-ーP      =ロンドン旅行
L-ーーFーー-ーーL  =曲を贈る
   PーーPーーL    =3回のライブ
という構成。

見ての通り、テクニカルなストーリー構造がほとんど無い。ほとんど、「~を計画」、「~をやった」で構成されている。
このストーリー構造のなさ具合は、後述する演出と関係があると考えられる。

■演出

この映画のコンセプトはおそらく、「放課後ティータイムといっしょにロンドン旅行しているような感覚になってもらう」ということと、「『天使にふれたよ』のエピソードを、唯たち送る側の視点で描く」の2つだろう。(これらはメインドライバーに対応している。ちなみにTV版では曲を贈られるあずにゃん側の視点が描かれた。)

1つ目については具体的に、旅行の申し込み、準備、行きの飛行機、空港、ホテルのチェックイン、帰りの飛行機など旅行に関係する全ての行程が省略されずに描かれている点、イギリス人の英語に字幕がついていない点などが挙げられる。これらはロンドン旅行を唯たちといっしょに「擬似体験」するための演出である。

2つ目については、秘密で準備するのにどきどきしている紬のメール、ホテルで夜に4人で集まって相談する描写、演奏する前に唯たち4人が緊張している様子など、TV版では描かれていなかった唯たち側の「気持ち」が描かれている。

■総評

ストーリーはこの映画の主要テーマではない。視聴者を魅了するのは、ストーリーではなく、放課後ティータイムと行くロンドン旅行の「疑似体験」である。旅はどこに行くかではなく、誰と行くかが重要だと言われるが、この映画も同じである。魅力的なのは、ロンドンでも、旅先のライブでも、歌を贈るというストーリーでもない。そのひとつひとつのなんでもない場面で見せる登場人物の反応や仕草こそが、この映画の最大の魅力なのである。そのためストーリーに関係のない演出が非常に多い。

視聴者の多くはすでにTV版を通して登場人物のノリを熟知している。
映画「けいおん!」はバーチャルな世界に構築されたユートピア的人間関係の結晶であり、訓練された視聴者はそれを享受しているかのように体験することが出来る。

今回の劇場版は、唯たち放課後ティータイムと「もっといっしょにいたい」という視聴者に答えた「アンコール」という言葉がふさわしい。


----------------------------------------------------------

以下、ストーリー構造上の改善策。


■いくつかの疑問

ストーリー上、不自然なエピソードがいくつかある。特に、ライブはすべて挿入的であり、メインドライバーと関連性が薄い。そのため、これらをメインドライバーに組み込めばストーリー構造を強化することが可能である。ただし、今作の演出上、ストーリーは強くなくてもよいのかもしれない。

①アフタヌーンティー(L-F)
なぜか、アフタヌーンティーは「予約が必要」という良く分からない理由で失敗する。ギャグや悲劇で無い限り、普通はL-F-Lとなり、アフタヌーンティーと呼べそうなエピソードにつながって望みが叶うのだが、そういったシーンが無い。旅行だとそういう残念なこともありがちだよねということなんだろう。

②飛び入りライブ(P)
「たまたまいたからやって欲しい」というよく分からない理由で参加。ロンドンでの大きなエピソードにも関わらず、メインドライバーとの関連性が極めて薄い。

③さわ子登場(P)
なぜか、飛び入りライブの直前にさわ子が登場する。登場したはいいが、何もしない。出てきただけである。

④最終登校日ライブ(L)
クラスメイトの「ライブやってよー」との発案でやることに。その計画を潰そうとする謎の男性教員が登場するが、最後はよく分からない理由で折れる。詳細に見れば、「最終登校日ライブを計画する(L)も、ある男性教員に妨害されそうになる(E)。それをさわ子先生が影ながら助ける(G)。そしてライブは大成功(L)。(L-E-G-L)」と読める。しかし、そもそもそんな悶着はいらない気がする。

⑤梓からの返答(L-L)
普通のストーリー構成であれば、曲を披露した後に、梓からの返答(L)が入る。しかし、映画版では、すでに描かれたTV版を踏まえて返答に関するエピソードは簡素なものになっている。これは、TV版で描かれたのが「先輩が卒業してしまうという悲しさ(E)」に対して、「卒業は終わりじゃない、これからも仲間だよ」という歌のメッセージによる解決(G(L))であったため、「梓の悲しみが描かれない以上、返答は描くことが出来ない」から。また、TV版と同じシーンになってしまうからだと思われる。

■構造強化の一例

①アフタヌーンティー
L-F-Lとなるよう、お茶するシーンをどっかに入れる。たまたまもらう、フェスティバルライブ前に差し入れされるなどがありえる。

②③飛び入りライブ&さわ子登場
フェスティバルライブに飛び入りする段取りをさわ子にやってもらう。そうすればさわ子も自然に参加できるし、ライブ決定のインパクトが強くなる。また、「顧問」としてのさわ子の重要性も強調できる。

④⑤最終登校日ライブ&梓からの返答
誰得な男性教員かぎつけエピソードはカット。最終登校日ライブで、嬉しそうな梓、ちょっと悲しそうな梓のシーンを入れれば、楽しかった卒業旅行との対比で、梓の寂しさが描ける。それによって、王道的なE-G(L)となり、以降のエピソードが映える。また、これによってTV版の見え方も少し変わるはずだ。

これらを踏まえると次のようになる。


L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)

L それとは別に卒業旅行も計画する。

P さわ子が卒業旅行の話を知る。(伏線)

L ロンドンに行く。

P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
  (=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))

E ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。

P 突然現れたさわ子の手引きにより、日本の文化フェスティバルに参加する。

G さわ子の助言やライブの感触により、「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。

P ロンドンから帰国。

L 最終登校日ライブをする。

E 梓が卒業する先輩との別れを感じ始める。

L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。

L(G) 卒業式に梓に曲をプレゼントする。

L 梓喜ぶ。

これでライブがストーリー構造に関連付けられ、ストーリーの強度が増した。

2011年11月5日土曜日

「ナレッジダイビング」~ようこそ知識の海へ~


ナレッジダイビング(Knowledge diving)とは、Wikipediaなどのデータベースを活用し、ある事柄に関する広範な知識を修得することを目的とした知的スポーツである。また、これは近年の情報化ではじめて可能になった、ハイパーリンクを積極的に利用する新しい学習方法でもある。

では、さっそくナレッジダイビングのルール、効能、推奨されるツールなどについて紹介しよう。

■ようこそ広大な知識の海へ

「ネットサーフィン」という言葉に代表されるように、インターネットの世界はよく海に例えられる。それは、ネットに存在する多量の情報の集合体が、水平線のかなたまで広がる海の姿と良く似ているからだろう。

「ネットサーフィン」はどちらかというと、複数のサイトにまたがり海の表面をなでていく横方向の運動だが、「ナレッジダイビング」はその海に深く潜っていく縦方向の運動である。

「ナレッジダイビング」の舞台としてはWikipediaがふさわしい。Wikipediaには様々な事柄に関する知識が整理、集積されておりそれらがハイパーリンクで密接に結び付けられている。このような「十分な情報量」と、「各情報間のアクセス容易性」を兼ね備えたサイトはWikipedia以外にはあまりない。Wikipediaはまさにネット上の「広大な知識の海」といえる。もちろん他にもそういう場所があればダイバーは喜んで潜るだろう。

さあ、みなさんも準備を整え知識の海へダイブしよう。そこには、不思議のダンジョンさながらの新しい発見と冒険が溢れている。時には過酷で、帰還できるか不安になるようなこともある。そういう緊張感もダイビングの魅力の1つだろう。

■ナレッジダイビングのルール

ナレッジダイビングのルール(やり方)は次の4つの基本動作、2つの特例、1つの推奨行為からなる。これらを一言で言えば、「リンクをタブで開いていき、理解し、無事戻ってこられればダイビング成功」である。

(ナレッジダイビングに最低限必要なものは、Wikipediaとタブブラウザの2つである。ただし、Wikipediaと同じ性質を備えたサイトがあればそれでも構わない。)

------------------------------------------------

基本動作:

①ダイビングポイントを設定する
まずはじめに、Wikipedia上で興味のある言葉のページを開く。このページをダイビングポイントと呼ぶ。

②読む
開かれたページを読む。

③開く(潜る)
もし、途中で自分で説明できない単語(リンク)があれば、そのページを新しいタブで開き移動する。(すでにそのページのタブが開かれていた場合も新しく開くことを推奨する。)
ダイビングの深度(depth)はタブの数で表される。単位はタブ(tab)である。

④閉じる(浮上する)
あるページを読み終えたらタブを閉じて、直前のタブへ戻る。すべてのタブがなくなればナレッジダイビングは終了である。これを帰還するという。

ダイバーの判断による特例:
基本動作だけでは、多くの場合リンクが拡散し帰還が困難になるため、ダイバーは全体を見渡しどこかでリンクを断ち切る必要がある。そこで、ダイバーには基本動作以外に次の2つの行為が許される。これらによってダイビングの自由度が向上する。

⑤イグノア(ignore:無視する)
リンクは、ダイバーの判断でそれを無視することが出来る。ループしている場合、内容が細かすぎる場合、帰還が困難になると判断した場合などに行う。特例として様子見で開いたページについてはその場で閉じても良い(これはリンクを無視したのと同じである)。

⑥カットオフ (切り取り)
ページは、ダイバーの判断で読むかわりに保存してもよい。(URLをドラッグしてショートカットとして保存する。あるいはブックマークなど。)保存したページは閉じる。保存されたページは、次回以降のダイビングポイントとして利用できる。要は「後で読む」という建前で無視する。

さらに、推奨される行為:
これはルールではないが、ダイビングの質を向上させるのに役に立つ。

⑦地図を作る(mapping)
効果的な知識の修得のためには、インプットだけでなくアウトプットが重要である。そのため、まとめるとどういうことなのかというメモを残す。これは単なる記録というよりは、抽象的理解を促す為に行う。知識の修得は抽象的な理解がなされてはじめて達成されるからである。(そうでないものはすぐに忘れてしまう。)地図の作成方法は自由だが、マインドマップとの相性が良い。

------------------------------------------------

■ナレッジダイビングによる効能

①圧倒的に知識量が増える
まず、ナレッジダイビングをすると圧倒的に知識量が増える。これが第1の効能である。例えば「スキューバダイビング」という言葉を知っているかと問われれば、多くの人がYESと答えるだろう。しかし、「スキューバダイビング」について「良く」知っているかと問われれば、NOと答える人が多いはずだ。「スキューバダイビング」という単語を知っているということと「スキューバダイビング」に関する様々な知識を知っているということは全く別の問題だからだ。人物に例えるなら、ある人の名前を「知っている」ということと、その人について「良く知っている」ということが違うのと同じである。ナレッジダイビングが、もたらすのは後者のある事柄についての広範な知識である。

②知識が統合される(知識の最適化)
ナレッジダイビングでは、ある事柄を説明する際に用いられる言葉(リンク)をたどっていくため、自動的に関連分野が参照され、全体像が把握される。つまりナレッジダイビングでは統合されない雑学ではなく、全体のまとまりをもった知識の修得をすることができる。全体のまとまりをもった知識は、忘れにくく、かつ広く利用可能な知識となる。

③予期せぬひらめきが生まれる
知識量が増え、知識の最適化が行われると、さらに一段上のひらめきが生まれる。これはナレッジダイビングが関連性の高いものから低いものまですべてリンクで繋がっていることに由来する。定義のネットワークから明示的でない新たな関係性を見出す。それがここで言うひらめきである。また、このことはセレンディピティの開発にもなっている。

■推奨されるツール

ナレッジダイビングに適したツールについて紹介する。

・Google Chrome(ブラウザ)
ナレッジダイビングでは時に数十~百個程度のタブが開くことになる。さらに、1日で終わらない場合はタブを保存する必要があり、再度開く場合には数十個のタブが一斉に開くことになる。そこで、動作が軽くタブが保存できるGoogle Chromeが最適だ。百個程度のタブなら平気で開いてくれる。

・マウスジェスチャー
タブで開く、閉じる、タブを移動するを頻繁に行うため、それらの作業が簡単になるマウスジェスチャーを使えば基本動作が楽になる。Google Chromeの場合、例えば拡張機能の「Gestures for Chrome」を入れれば使える。

・タブ数計算機能、一覧機能
ナレッジダイビングではタブの数が状況を表すパラメータ(深度)になるので、タブの数を数える機能が欲しい。また、タブを沢山開くとタブが小さくなったり、一定以上のタブは画面外にいってしまってタイトルを確認することが出来なくなる。そこでタブの一覧機能も望ましい。Google Chromeの場合、拡張機能の「Quick Tab」など。

マインドマップ(メモ術)
マインドマップは、知識を整理して記述するのに向いている。また後で見直すことも容易である。マインドマップはマップというぐらいで、ナレッジダイビングの地図作りに適している。知識の最適化用と言える。ただし、離れた関連分野や、思いつきを書くのには向かない。また、個人的にはスピードアップのため、モノクロで書き、装飾もあまり用いない。


ナレッジダイビングのコツとしては、非常に興味のある言葉から始めることだ。
ナレッジダイビングは無料でしかも、いくらでも深く潜ることが出来る。スリリングなことが好きな人、学術的な刺激が好きな人、知識を増やそうと考えている人、ネット上のコンテンツに飢えているユーザーにとっては特にお勧めである。