2012年7月22日日曜日
【ストーリー解析】「おおかみこどもの雪と雨」
2012/7/21に公開された映画「おおかみこどもの雪と雨」のストーリー解析をする。
*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。
■基本情報
監督・原作 - 細田守
脚本 - 細田守、奥寺佐渡子
製作 - スタジオ地図/おおかみこどもの雨と雪製作委員会
細田守監督によるオリジナル長編アニメの第二作目。脚本は「時をかける少女」、
「サマーウォーズ」を手がけた奥寺佐渡子と細田守。おそらく、大まかなストーリーは原作者でもある細田が考えたのではないだろうか。
■声優情報
主に俳優、女優などを起用。
花 - 宮崎あおい
彼(おおかみおとこ)- 大沢たかお
雪 - 黒木華、大野百花(幼少期)
雨 - 西井幸人、加部亜門(幼少期)
突然、林原めぐみが出てきて気になってしょうがなかった人もいるかと。「ゲド戦記」に出た菅原文太も出演。
■あらすじ
主人公である花が「おおかみおとこ」との間に授かった2人の子供を懸命に育てる話。ストーリーは公式のあらすじでほとんど語られており、細田守はあまり隠す気がないらしい。一応のネタバレは、姉の雪は人間として、弟の雨は狼としての生活を選択すること。
形式としては雪のモノローグであり、映画の冒頭から要所要所で雪の「語り」が入る。この形式には、声の主が雪であると観客に気がつかせる一方で、「雨との別れ」を示唆する高度な狙いがある。雨がおぼれたシーンで「ひょっとして雨は死んでしまうのでは」と思った人も多いはず。
■ドライバー
メインドライバーは、
1.花が子供達の成長を見届ける(L-F-L)
2.雪が人間としての生き方を見つける(L=E-G)
3.雨が狼としてのの生き方を見つける(L=E-G)
の3つ。
サブドライバーとしては、
1.花とおおかみおとこの恋(L-L)
2.田舎ぐらしを近所の人に助けられる。(E-G)
3.山で滑落した花を、雨が助ける(E-G)
などがある。
全体の構成は次の通り。
L 花は大学の授業に潜っていた「彼」に恋をする。
|
L 花と彼の関係は次第に深まっていく。
|
E(L)彼は自分が「おおかみおとこ」であることを打ち明ける。
|
G(L)花はそれを受け入れる。
|
P 花と彼の間に長女「雪」が生まれる。
|
P 花と彼の間に長男「雨」が生まれる。
|
E 彼が不慮の死を遂げる。
|
L 花は二人の子供を育てようと決心する。
|
EG「おおかみこども」であることを隠しながらの生活に限界を感じ、田舎に越す。
|
E 収入が無く、野菜も上手く育たない。
|
G 近所の人の助けで、生活が軌道に乗る。
|
P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。
|
P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。
|
P 雨は、学校に溶け込めないでいる。
|
P(EG)雨は川で溺れそうになった事故を通じて、自然の世界に惹かれていく。
|
L 雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。
|
E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。
|
G 花と雪が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。
|
EG 雪は学校を嫌がったが、草平が根気よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。
|
P 雪と雨が、おおかみか人間かをめぐって対立する。
|
P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。
|
F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。
| |
P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。
| |
E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。
|
P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。
|
P 草平は、親の問題を打ち明ける。
|
G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。
|
L 草平は、その気持ちに応える。
|
G 雨は花を助ける。
|
F 雨は、森へと旅立つ。花はそれを止めようとする。
|
L 雨が旅立ち、咆哮。花は、その姿に子供の巣立ちを確信する。
|
P エピローグ
マクロに見ると全体の構成としては、4つの物語が展開されている。
①花と彼の出会い
花と彼は恋に落ちる。彼は不安がりながら「おおかみおとこ」であることを明かすが、花はそれを受け入れ、2人は「雪」と「雨」を授かる。(L-L-F-L)
②雪の成長譚
雪は初めは活発で狼らしく走り回っていたが、学校に行き始めてから人間の輪から外れてしまうことを恐れ始める。それがきっかけで、雪はささいなことから草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。しかし、草平はそれを理解し、雪がおおかみであるという秘密を隠し通して、雪を「おおかみ」であることの葛藤から解き放つ。
(L-E-G-F-L)
③雨の成長譚
雨は初めは引っ込み思案で甘えん坊だったが、川で溺れた事件(狩りの成功体験)をきっかけに、次第に自然への興味を深めていく。雨は、森のきつねを先生とよび慕う。しかし、大雨により先生が死に、その後を継ぐことを決意する。(P-L-E-G)
④花の子育ての物語
花はとにかく一生懸命子供たちを育てていく。しかし次第に、人間らしくしようとする雪と、野生に目覚めていく雨とのギャップに不安を感じ始める。おおかみでも人間でもどちらでも選べるようにと思っていたはずなのに、花には雨の生き方を受け入れる準備ができていなかった。初めは雨を引き止めようとする花だが、最後には狼として立派に成長した雨の姿を見て覚悟を決める。それは、花が「母」としての最後の成長を遂げた瞬間だった。
(L-F-E-G-L)
■演出
まず冒頭から度々登場する、実写にかなり近い作画に目を奪われる。特に背景などは実写とアニメの中間のようだ。多くのシーンでCGも使われている。舞台が自然豊かな田舎ということもあり、「トトロ」や「もののけ姫」などのジブリ作品と比較をしたくなる。怪しさや誇張という点から見ると最近のジブリよりもあっさりしており、「トトロ」のそれに近い。
題材が「おおかみこども」ということもあり、「崖の上のポニョ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」にもつながる部分もある。
キャラクターなどの主線部については、走るシーンが多くよく動く。あと、多分、子育てをしている親にとっては「あるある」といったネタが多いのだろうと思う。
おそらくコンセプトは、「自然美」、「狼としてのリアリティ」、「リアルな子育て」といったところか。
■総評
この映画の対象年齢は、子供のいる30代とその子供かもしれない。親は泣いて、子供は狼を見て喜ぶのだろう。子供のときは分からないが、大人になって本当の意味が分かる映画になっているように思う。
映像美は、現代アニメの最高峰と言っても過言ではない出来栄え。とにかく背景と、動きがすごい。しかし、ストーリーには若干の問題がある。まずストーリーが長すぎる。ひとつひとつのエピソードが単発になっており、全体としての流れを欠いている。農作業、自然観察員、川で溺れるくだりなど、メインドライバーと関係の薄いエピソードは除くか、メインドライバーと絡ませる必要があっただろう。
あと男としては、雨にもっと活躍して欲しかった。
■いくつかの謎
設定について、微妙な点が結構ある。
①おおかみおとこの名前
なぜか彼(おおかみおとこ)には名前が無い。というより、おおかみおとこなのに設定がほとんど明らかにならない。
②おおかみおとこの死の謎
死なないと話が進まないのは分かるが、全くの謎というのもどうだろう。
③檻の狼の意味
檻の狼は伏線でも何でもない。
④無口な先生
先生がきつねってどうなの。しかも、全然しゃべらない。どうも知能はあるらしいが、設定が謎。
⑤雪を迎えに行かなくてもいいの?
雨のことを山に探しに行く花の行動に違和感。もう少し、どうしても追いかけなければならない演出が必要だったのかも。
⑥何も言わずに旅立つ雨
何か言っても良さそうなのだが、何も言わない。また、花とは何となく別れを交わしたが、雪とはさっぱり。
⑦雨は家近いんだしたまに帰ってきたらいいんじゃないの?
だよね。
⑧雨って結局なにしてんの?
山の自然観察員みたいなもん?
⑨戸籍とか??
多分なんとかなってるんだろう。
■ストーリー改善案
この作品のストーリーの問題点は、ひとつひとつのエピソードがばらけていることにある。一応、全体を貫くドライバーは、子育てと子離れ(L-F-L)ということになるのだが、だとすると野菜がうんぬんは長すぎた気がする。また、父親であるおおかみおとこのキャラが薄すぎて、役に立っていない。
そこで、
①花が雨と彼をダブらせる描写を入れる。
例えば序盤の変身シーンと、後半の雨の変身シーンをダブらせる。前半で彼に
花をおんぶさせておき、後半で雨が花をおんぶするシーンにつなげるなど、雨の成長を描く。
②花の言葉の中に、彼の言葉を入れる。
雨と父親の接点が無いので、花の言葉の中にそれを織り交ぜておく。視聴者には、それが雨に受け継がれていることが悟れるように。おまじないでも良い。
候補は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とか。彼の口癖にしておけばいい。
③雪が怪我をさせたとき、それを雨がかばう。
しかし、それが原因で雪と雨の溝は深まり、雨は学校から距離を置く。
④溺れたとき助けてくれるのは「先生」
その方が、雨が森に惹かれるきっかけになる。
⑤雨が雪を追い越す描写を入れる。
ケンカがただのケンカになっているので、その後に雨が雪を助ける描写を入れる。雨には「母さんを頼む」ぐらいは言って欲しかった。
つまり、後半のドライバーは「急成長する雨」を主軸に置く。
これらを踏まえると、次のようになる。
(前半は同じ)
|
P 子供たちは成長し、小学校に通うようになる。
|
P 雪は、友達との交流から人間の女の子としての生き方を意識するようになる。
|
P 雪は雨を学校に誘う。
|
E 雪が「おおかみ」であることを知られそうになる恐怖心から、転校生の草平に狼の姿で怪我を負わせてしまう。
|
P それを雨がかばう。
|
G 花と雨が、草平の母に謝り、一応は解決する(伏線)。
|
P 雪は花に本当のことを話す。でも、草平には本当のことを言えないでいる。
|
EG雪は学校を嫌がったが、草平が今期よく家を訪れ、雪はまた学校に通うように。
|
P 溺れた事件をきっかけに、雨が森のキツネを先生と呼び慕うようになる。
花は事件と彼の死を重ね合わせて、大切なものを失うことに恐怖する。
|
P 雪と雨のケンカ。
|
F(E)花は、雨が狼として歩み始めていることに戸惑いを感じる。
|
P 大雨が襲来。森のキツネが死ぬ。
|
P(E)雨は、先生の後を継ぐ決意をし、森へ。
|
E(G)花は、雨を追って森に入るが、山で滑落し意識を失ってしまう。
|
P 一方で、学校に取り残された雪は草平と二人きりに。
|
G(L)雪は、自分が「おおかみ」で草平に傷を負わせてしまったのが自分であることを打ち明ける。
|
L 草平は、その気持ちに応える。
|
P 雪は異変に気がつき、山に花を探しに。
|
G 雨は花を助ける。花は彼とのをだぶらせ、雨の成長を感じ取る。
|
P そこに雪が駆けつける。
|
F 雨は、森へと旅立とうとする。花はそれを止めようとする。
|
L 雨は、雪に花を託して旅立ち、咆哮。花は、その姿に雨の巣立ちを確信する。
|
P エピローグ
これで、ドライバーの関連性が確保され、ストーリーの強度が増した気がする。
2012年7月13日金曜日
iPadは2人用(笑)。
最近ひょんなことから、『新しいiPad』を使っている。わりと普及しつつあるiPadだが、私の周りではまだ購入するかどうか悩んでいる人が多い。その多くは理由として、
「5万円は高い」
「回線の契約?が煩わしい」
などの購入障壁を挙げる。しかし、よくよく話を聞いていくと、
「結局、iPadで何が出来るのか分からない」
というのが購入に踏み切れない理由のようだ。お察しの通り、数ヶ月前まで私もその一員だった。
結論から言えば、iPadは素晴らしい。しかし、それは私がそれを手にするまで想像したこともなかった意味での素晴らしさだ。
おそらく、iPadの所有者は「iPadで出来る事」を次のように挙げるだろう。
「ウェブサイトが見れる」
「メールをチェックできる」
「写真が撮れる」
「アプリが沢山ある」
・・・
しかし、そこに目新しさはない。それはスマートフォンで出来ることばかりだし、家にはパソコンがある。このような説明では、購入検討者がiPadにいまいち魅力を感じられないのもうなずける。
購入検討者が本当に知りたいのは、
「iPadにしかできないこと」
なのだから。
iPad発売当時、スティーブ・ジョブズはiPadのプレゼンテーションの中で、iPadが最適な環境は「リビング」だと言った。当時、それを見ていた私は『寝転がってインターネットが出来る』ぐらいにしか理解していなかった。しかし、今はその意味がよく分かる。
私たちは、パソコンや、携帯電話を見るとき、その「中身」にばかり気をとられているかもしれない。しかし、iPadが変えたのは、その「中身」ではなく、それを見る「環境」だ。
例えば、旅行代理店や、携帯ショップに行ったことがあるなら、そのとき資料がどのように提示されるかを思い出してほしい。きっと、机の上に無造作に広げられ、必要に応じて、あなたの前に差し出されるはずだ。
それは、垂直に立てられたディスプレイや、携帯画面では実現できないだろう。
iPadの特徴である、軽量性、平面性、美しいディスプレイ、そして機能的なカバーはすべて、それを見る「環境」へ向けられたものだ。
私たちはいつから、iPadが「1人用」だと錯覚していただろうか?
例えば、単に「写真が撮れる」という機能に着目すれば、iPadと携帯電話、コンパクトデジカメの間に差は無いだろう。しかし、そこには「1人用」か「2人用」かという決定的な差がある。
携帯電話やコンパクトデジカメに慣れた人は、「どうしてそんな大きなもので撮らなければならないのか?」と言うだろう。しかし、
「ねえ、こんな写真をとったよ!」
という気持ちを伝えたいとき、優れている媒体は一体どっちだろうか?
「2人用(多人数用)」という視点が入ったときはじめて、iPadが写真機であると同時に「アルバム」であることに気付かされる。
持ったり、回したり、揺れたり、角度をつけたり、あらゆる動きにiPadはフィットする。それは、もちろん「1人用」にも適しているだろう。しかし、ジョブズが「リビング」と言ったとき、彼の「リビング」には何人の人がいたのだろうか?
1人のときもあれば、家族がいることも、そして友人が訪れることもある。それが彼の言う「リビング」だったのではないかと思う。
だから、iPadが本領を発揮するのは、テーブル、ソファー、移動中、外出先など、その姿勢が固定されない場所、そして、それを2人以上で見る場合だ。それが「リビング」に最適という意味なのだ。
これを読んでいる皆さんはひょっとするとiPadに、文章や考えをまとめたり、やり残した仕事を外に持ち出すデバイスとしての期待をしているかもしれない。
しかし、その期待はいい意味で裏切られるだろう。あなたはiPadを持ったとき、あまりに多くの「見やすく、見せやすい」場面があることに気がつくだろう。
それが、iPadにしかできないことであり、iPadの魅力なのだ。
私たちは、パソコン、携帯電話を通じて、「1人用」の世界に慣らされてきた。しかし、私たちはそろそろその偏りから解放されてもよいだろう。
「2人用」が作るのは、より身近になった電子デバイスの時代だ。その先駆けがiPadであり、この後に続くであろうタブレット端末の世界なのだろう。
「5万円は高い」
「回線の契約?が煩わしい」
などの購入障壁を挙げる。しかし、よくよく話を聞いていくと、
「結局、iPadで何が出来るのか分からない」
というのが購入に踏み切れない理由のようだ。お察しの通り、数ヶ月前まで私もその一員だった。
結論から言えば、iPadは素晴らしい。しかし、それは私がそれを手にするまで想像したこともなかった意味での素晴らしさだ。
おそらく、iPadの所有者は「iPadで出来る事」を次のように挙げるだろう。
「ウェブサイトが見れる」
「メールをチェックできる」
「写真が撮れる」
「アプリが沢山ある」
・・・
しかし、そこに目新しさはない。それはスマートフォンで出来ることばかりだし、家にはパソコンがある。このような説明では、購入検討者がiPadにいまいち魅力を感じられないのもうなずける。
購入検討者が本当に知りたいのは、
「iPadにしかできないこと」
なのだから。
iPad発売当時、スティーブ・ジョブズはiPadのプレゼンテーションの中で、iPadが最適な環境は「リビング」だと言った。当時、それを見ていた私は『寝転がってインターネットが出来る』ぐらいにしか理解していなかった。しかし、今はその意味がよく分かる。
私たちは、パソコンや、携帯電話を見るとき、その「中身」にばかり気をとられているかもしれない。しかし、iPadが変えたのは、その「中身」ではなく、それを見る「環境」だ。
例えば、旅行代理店や、携帯ショップに行ったことがあるなら、そのとき資料がどのように提示されるかを思い出してほしい。きっと、机の上に無造作に広げられ、必要に応じて、あなたの前に差し出されるはずだ。
それは、垂直に立てられたディスプレイや、携帯画面では実現できないだろう。
iPadの特徴である、軽量性、平面性、美しいディスプレイ、そして機能的なカバーはすべて、それを見る「環境」へ向けられたものだ。
私たちはいつから、iPadが「1人用」だと錯覚していただろうか?
例えば、単に「写真が撮れる」という機能に着目すれば、iPadと携帯電話、コンパクトデジカメの間に差は無いだろう。しかし、そこには「1人用」か「2人用」かという決定的な差がある。
携帯電話やコンパクトデジカメに慣れた人は、「どうしてそんな大きなもので撮らなければならないのか?」と言うだろう。しかし、
「ねえ、こんな写真をとったよ!」
という気持ちを伝えたいとき、優れている媒体は一体どっちだろうか?
「2人用(多人数用)」という視点が入ったときはじめて、iPadが写真機であると同時に「アルバム」であることに気付かされる。
持ったり、回したり、揺れたり、角度をつけたり、あらゆる動きにiPadはフィットする。それは、もちろん「1人用」にも適しているだろう。しかし、ジョブズが「リビング」と言ったとき、彼の「リビング」には何人の人がいたのだろうか?
1人のときもあれば、家族がいることも、そして友人が訪れることもある。それが彼の言う「リビング」だったのではないかと思う。
だから、iPadが本領を発揮するのは、テーブル、ソファー、移動中、外出先など、その姿勢が固定されない場所、そして、それを2人以上で見る場合だ。それが「リビング」に最適という意味なのだ。
これを読んでいる皆さんはひょっとするとiPadに、文章や考えをまとめたり、やり残した仕事を外に持ち出すデバイスとしての期待をしているかもしれない。
しかし、その期待はいい意味で裏切られるだろう。あなたはiPadを持ったとき、あまりに多くの「見やすく、見せやすい」場面があることに気がつくだろう。
それが、iPadにしかできないことであり、iPadの魅力なのだ。
私たちは、パソコン、携帯電話を通じて、「1人用」の世界に慣らされてきた。しかし、私たちはそろそろその偏りから解放されてもよいだろう。
「2人用」が作るのは、より身近になった電子デバイスの時代だ。その先駆けがiPadであり、この後に続くであろうタブレット端末の世界なのだろう。
2012年5月8日火曜日
定量問題とその解決
2011年は、原発事故問題やTPP問題など、定量的な判断を伴う問題が注目を集めた年だった。放射線は、どこまでが安全なのか?TPPはいくら儲かるのか?このような問題は、その定量的な判断を抜きにしては答えを導くことができない。
ある主張、あるいはある問題の理解には定性的なものと定量的なものがある。
まず、ある論理的主張A→Zには、AからZを導く際の道順A→B→…→Zが必要である。
ざっくり言えば、これが定性的な関係にあたる。
数学では、論理展開は公理や定義とその組み合わせによって行われるので、その道順の真偽値は100%決まる。これを単調論理という。
しかし、日常的な論理(非単調論理)では、各主張X→Yの真偽値は一般に不明である。そこで、X→Yの真偽についての確率的判断が必要であり、それが定量的な関係にあたる。
例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは論理の鎖としては成り立つが、その確率的判断は信頼できず、論理的主張としては弱い。つまり、どのくらいの風が吹けば桶屋がいくら儲かるのか?という定量的な側面が語られなければ、本当に「風が吹けば桶屋が儲かる」のかは分からない。
このような、確からしさや量の問題を「定量問題」と呼ぶことにしたい。今回の興味は、この定量問題がどこから来るのか、そしてその解決法である。
さて話を進める前に、はっきりさせておきたいのは、これは文科系とか理科系とかの差にはほとんど関係がないということだ。
文科系だろうが、理科系だろうが、人は普段、定量的判断をしながら生活している。なぜなら、日用品、食料品、衣料品などの買い物をするには、その判断が必ず必要だからだ。良いけど高いものと、まあまあだけど安いものがあれば、当然どちらを買うか考える。
そこに文科系、理科系の違いはない。
つまり、普通の人には日常的な生活の中で、定量的判断が身についていると考えるべきだろう。
しかし、ではなぜ定量的判断が身についている人々の間で、原発事故問題やTPP問題が起こるのか。それは、おそらくそのような問題が普通の人々の持つ定量問題の「適用範囲」から外れているからである。
例えば、普通の人に、「こちらの服とあちらの服のどちらが良いですか」と言われたら、定量的に値段や生地、デザインからどちらかを選ぶことが出来るだろう。しかし、「TPP賛成ですか、反対ですか」と言われたら、「そもそもTPPって何?」とか「よくわからないけど反対です」としか答えようがない。
つまり、普通の人にとって、原発事故問題やTPP問題は、内容がめんどくさすぎる問題であって、定量問題などという捉え方をする対象に入っていないのだ。
ある問題が、適用範囲から外れてしまった場合、その問題への対応はおおよそ次のようなパターンがある。
①無視する
②誰かの意見にのっかる
③アンチになる
④情動的に判断する
また、これらの総体として衆愚政治が生まれる。これは、日本のような民主主義国家にとっては根本的な問題であり、これを解決するには、その問題を定量問題として一般の人の適用範囲に入れてやる必要がある。
そのための方法は、おおよそ次のようなものだ。
①データを用意する
②論点を整理する
③○○派に分解する
④○○派と××派を交流させる
まず、議論の土台としてデータが無ければ話にならない。(これは数値データだけでなく、文章なども含む。)データ無しに議論することは、大いなる無駄である。データが出た瞬間に、すべてひっくり返ってしまうからだ。必要なデータを出させるのは、株主や、政治家、あるいはハッカーの仕事である。
次に、論点をある程度整理する必要がある。これは、有志で行う。ある程度の大局観を持たなければ、何が問題で、どこが論点かは分からない。また、このとき○○派を定義する。
その後、全員を○○派に分解する。少なくとも、自分が何派に当たるのかが分かるように、チャートのようなものを作るのが望ましい。いい例えかは分からないが六星占術とか、動物占いのようなものだ。アイドルで誰が好きとか、いわゆる俺の嫁の選出も同じである。ここからは、全員が参加できる難度になる。
そして、最後に○○派同士を交流させる。これは、勧誘合戦といってもいい。その勧誘の過程で論点についての議論が行われる。ただし、ここには利害関係も含まれており、必ずしもディベート的な応酬だけが繰り広げられるわけではない。話合いが決裂すれば、それは戦争にならざるをえない。結果的に、ベクトルは新規○○派獲得や、教育へと向いていく。真に争点となるのは、そこである。
ある問題について、その有識者や関心のある人は①と②をやるのが望ましい。そのとき必ずしも、○○派であることを明言する必要は無い。それは普通の人に「誰かの意見に乗っかる」ことや「アンチになる」ことを促す行為だからだ。
そして、普通の人(有識者でもなく、関心もない人)は③を、さらにその中で暇な人は④をやると良い。
このようにして、めんどくさすぎる問題は、普通の人の定量問題の適用範囲に入る。特に、①②の役割は重要であり、定量問題を解決するには、それを担当する人の数が増えることがポイントとなる。
これらが、2chをはじめとしたネット上でうまくいけば、日本の風通しも少しはよくなるのではないだろうか。
2012年1月31日火曜日
100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない
今回は珍しく世間話(政治)。なんとなくこのブログに合わない気もするが、一応載せることにした。
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「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」
1月28日に放送された「朝まで生テレビ」を見ていて思ったことがある。2012年の幕開けを福島で行い、その第2弾を注目のあつまる大阪で行う。しかも、渦中の橋本市長が出演というあたりに、田原氏の2012年への意気込みを感じる。
私はかねてから政治との距離感を掴めずにいた。そういったニュースや動画は見るものの、そこには一定の違和感がある。そこで展開される議論や内容自体は新鮮にうつるが、どうも熱が入らないのだ。
経済、福祉、税金など私たちがそこで扱われている問題の当事者であることは確かだ。しかし、そこに実感がわかない。もちろん日本国民なので投票権はあるが、その時々になんとなく候補者を選んでいるだけだし、税金の使い道がどうのと言っても、もともと収めている税金の額はたかがしれている。
ネット民とされる人々が利用する2チャンネルにはことあるごとにスレが立つが、そのレスにもあまり関心が無い。自分のことながら、なぜなのだろうかと普段から疑問に思っていた。
しかし、「朝まで生テレビ」を見ていて気がついたことがある。見た人はご存知のように、番組は終始橋本市長のペースで進んだ。それは、橋本市長が人間的に優れているとか、相手の論客がバカだとかそういうことではないと思う。単に橋本市長と論客では大阪への「腰の入れ方」が違うのである。単に両者が持ち出すデータの量をみてもその差は歴然としていた。
橋本市長は弁が立つ。しかし、それはおそらくタウンミーティングなり、部下との議論なりで積み重ねてきた結果だろう。大阪の問題を整理し、論点を洗い出し、解決策を考えている。逆に言えば、大阪以外のことを聞かれてもそんなに分かり易くは説明できないだろう。毎日、大阪のことを考えているから、大阪のことをあれだけ説明できるのだ。
橋本市長は「対案を示してください」とか「案は出していますから、問題があるなら言ってください」などと番組の中で繰り返した。日々、大阪について考え、沢山のスタッフと実務を行っている男に一体誰がそんなものを示せるというのだろうか。
大阪という都市を知らないわけではない。しかし、私たちが真面目に日々考えているのは、自分の「個人的な問題」あるいは「仕事上の問題」なのである。私たちにとって大事なのは、「個人的な問題」であって、自分の住んでいる街の行政体にだってあまり興味が無い。それは極論してしまえば、大阪について考えること、あるいは自分の住んでいる街について考えること、それは私の「仕事」ではないのである。
論客の先生方も、大阪で飯を食っているかというと微妙である。もちろん本などを出版されている方は反省する点があるだろう。とはいえ、批判本などは要するに批判することが仕事であって、大阪をよくしようとかそういう意識は無いように思う。先生方の興味はあくまで、自分の仕事の範囲の中であって、行政の長と組するほどの意識があるはずがない。大阪だけを特別視する時間も無ければ、労力もない。
2チャンネルの住人にしても、ツイッターでつぶやいている人にしてもそうだろう。誰が大阪の行政のことを考えて飯を食っているというのか。福島の人たちや、大阪の事業者、子供を学校に通わせる親などはかろうじて、仕事と関係があるだろう。元旦の福島の回にしても、住民の本気度はすさまじかった。しかし、それと仕事や生活が直接関係していない人の本音は「お金(税金)は払うから、よろしくやってくれ」ということではないだろうか。少なくとも私はそうだ。
無責任のように感じられるかもしれないが、それよりも「個人的な問題」や「仕事上の問題」が大事であって、それらを解決するからこそ、労働に付加価値が生まれGDPは上がることになる。ひいては税収アップにつながるのだ。
今回の放送で露呈したのは、「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」ということである。
演者の中で、本当に大阪の改革に興味があるのは橋本市長だけであった。田原氏にしても、その興味はジャーナリズムにある。別に大阪だけが特別なのではない。
そこで、私たちのとりうる立場は、少なくとも「複数の」興味のある者を見出すことであろう。本気で大阪の改革の矢面に立つのが橋本市長だけだから、独裁だのヒトラーだの言われてしまうのだ。国政にしても、増税に熱意を燃やす野田総理に「対案を示せ」と言われて出せないような論者では、話があらぬ方向にいってしまうのは当たり前である。
私たちには、私たちの「個人的な問題」や「仕事上の問題」がある。政治家や、ジャーナリスト、学者は「一緒に考えて下さい」というかもしれない。「それが日本のため、地域の為。最後はあなたが決めるんです」と。しかし、私たちは忙しい。「それで直接恩恵を受けるのはあなたではありませんか?」といいたくなる。私たちがもっと興味があるのは、「個人的な問題」や「仕事上の問題」でしかないのである。なぜなら、それは「私」が解決するほかにないからだ。「私」以外にそれを考えてくれる人はいない。
逆に言えば、私たちが積極的に政治に関わるには、それを生業とするしかない。どこで活動するか、どこで仕事するか、何を仕事とするか、その選択の中で行政体とのかかわりは生まれてくる。そこで初めて、政治が「個人的な問題」や「仕事上の問題」になる。そうしたときに初めて、勝負になるのだ。
もしそうできないなら、少なくとも2人以上の「興味のある論者」を対決させよう。これはプロレスと同じようなものだ。ビックカードは、ファンの関心を引かなければ実現しない。ファンはそれを楽しめば十分だし、ビックカードなら当事者同士も勉強になるだろう。
私たちは広域の問題には無関心だが、ビックカードを実現させる力は持っている。それこそが最大限に譲歩した民主主義ではないだろうか。
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「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」
1月28日に放送された「朝まで生テレビ」を見ていて思ったことがある。2012年の幕開けを福島で行い、その第2弾を注目のあつまる大阪で行う。しかも、渦中の橋本市長が出演というあたりに、田原氏の2012年への意気込みを感じる。
私はかねてから政治との距離感を掴めずにいた。そういったニュースや動画は見るものの、そこには一定の違和感がある。そこで展開される議論や内容自体は新鮮にうつるが、どうも熱が入らないのだ。
経済、福祉、税金など私たちがそこで扱われている問題の当事者であることは確かだ。しかし、そこに実感がわかない。もちろん日本国民なので投票権はあるが、その時々になんとなく候補者を選んでいるだけだし、税金の使い道がどうのと言っても、もともと収めている税金の額はたかがしれている。
ネット民とされる人々が利用する2チャンネルにはことあるごとにスレが立つが、そのレスにもあまり関心が無い。自分のことながら、なぜなのだろうかと普段から疑問に思っていた。
しかし、「朝まで生テレビ」を見ていて気がついたことがある。見た人はご存知のように、番組は終始橋本市長のペースで進んだ。それは、橋本市長が人間的に優れているとか、相手の論客がバカだとかそういうことではないと思う。単に橋本市長と論客では大阪への「腰の入れ方」が違うのである。単に両者が持ち出すデータの量をみてもその差は歴然としていた。
橋本市長は弁が立つ。しかし、それはおそらくタウンミーティングなり、部下との議論なりで積み重ねてきた結果だろう。大阪の問題を整理し、論点を洗い出し、解決策を考えている。逆に言えば、大阪以外のことを聞かれてもそんなに分かり易くは説明できないだろう。毎日、大阪のことを考えているから、大阪のことをあれだけ説明できるのだ。
橋本市長は「対案を示してください」とか「案は出していますから、問題があるなら言ってください」などと番組の中で繰り返した。日々、大阪について考え、沢山のスタッフと実務を行っている男に一体誰がそんなものを示せるというのだろうか。
大阪という都市を知らないわけではない。しかし、私たちが真面目に日々考えているのは、自分の「個人的な問題」あるいは「仕事上の問題」なのである。私たちにとって大事なのは、「個人的な問題」であって、自分の住んでいる街の行政体にだってあまり興味が無い。それは極論してしまえば、大阪について考えること、あるいは自分の住んでいる街について考えること、それは私の「仕事」ではないのである。
論客の先生方も、大阪で飯を食っているかというと微妙である。もちろん本などを出版されている方は反省する点があるだろう。とはいえ、批判本などは要するに批判することが仕事であって、大阪をよくしようとかそういう意識は無いように思う。先生方の興味はあくまで、自分の仕事の範囲の中であって、行政の長と組するほどの意識があるはずがない。大阪だけを特別視する時間も無ければ、労力もない。
2チャンネルの住人にしても、ツイッターでつぶやいている人にしてもそうだろう。誰が大阪の行政のことを考えて飯を食っているというのか。福島の人たちや、大阪の事業者、子供を学校に通わせる親などはかろうじて、仕事と関係があるだろう。元旦の福島の回にしても、住民の本気度はすさまじかった。しかし、それと仕事や生活が直接関係していない人の本音は「お金(税金)は払うから、よろしくやってくれ」ということではないだろうか。少なくとも私はそうだ。
無責任のように感じられるかもしれないが、それよりも「個人的な問題」や「仕事上の問題」が大事であって、それらを解決するからこそ、労働に付加価値が生まれGDPは上がることになる。ひいては税収アップにつながるのだ。
今回の放送で露呈したのは、「100人の興味ない者は1人の興味ある者に勝てない」ということである。
演者の中で、本当に大阪の改革に興味があるのは橋本市長だけであった。田原氏にしても、その興味はジャーナリズムにある。別に大阪だけが特別なのではない。
そこで、私たちのとりうる立場は、少なくとも「複数の」興味のある者を見出すことであろう。本気で大阪の改革の矢面に立つのが橋本市長だけだから、独裁だのヒトラーだの言われてしまうのだ。国政にしても、増税に熱意を燃やす野田総理に「対案を示せ」と言われて出せないような論者では、話があらぬ方向にいってしまうのは当たり前である。
私たちには、私たちの「個人的な問題」や「仕事上の問題」がある。政治家や、ジャーナリスト、学者は「一緒に考えて下さい」というかもしれない。「それが日本のため、地域の為。最後はあなたが決めるんです」と。しかし、私たちは忙しい。「それで直接恩恵を受けるのはあなたではありませんか?」といいたくなる。私たちがもっと興味があるのは、「個人的な問題」や「仕事上の問題」でしかないのである。なぜなら、それは「私」が解決するほかにないからだ。「私」以外にそれを考えてくれる人はいない。
逆に言えば、私たちが積極的に政治に関わるには、それを生業とするしかない。どこで活動するか、どこで仕事するか、何を仕事とするか、その選択の中で行政体とのかかわりは生まれてくる。そこで初めて、政治が「個人的な問題」や「仕事上の問題」になる。そうしたときに初めて、勝負になるのだ。
もしそうできないなら、少なくとも2人以上の「興味のある論者」を対決させよう。これはプロレスと同じようなものだ。ビックカードは、ファンの関心を引かなければ実現しない。ファンはそれを楽しめば十分だし、ビックカードなら当事者同士も勉強になるだろう。
私たちは広域の問題には無関心だが、ビックカードを実現させる力は持っている。それこそが最大限に譲歩した民主主義ではないだろうか。
2011年12月21日水曜日
対称性による類推について
ある概念を説明する際、それと似た概念をもって説明することを類推(アナロジー)という。
あるものの構成要素の数は、単純に、1か2か3か4か・・・と分類されるが、それらの数の一致をもって何かを言うというのは危険である。
あるものが似ているからと言って、それらが同じ性質をもつとは限らない。
類推が成り立つのは、それらが結果的に同じ法則に従う場合だけだ。(例えば、同じ方程式に従うなど。)
上位概念は蓋然的ないくつかの要素から帰納的に仮定され、演繹的に検証される。そのため、ある「似ている」ものを見つけると、それらが他の面でも同じ性質を持つと考えたくなってしまうものであるが、実際にはそういえることは少ない。
「似ている」ものの中でも特に「構成要素の数」は極めてありふれており、出会う機会が多いだけに注意が必要である。
「構成要素の数」の対称性には例えば次のようなものがある。これらのものを即座に結び付けてしまうのは誤謬である。これらはその「構成要素の数」以上の関連性が無いかもしれない。
これらを見て、「関係がある!」と思ってしまった人は、よくよく考えてみよう。「何が違うか」を考えれば、おそらくそれらの間に同じとは言えない反例が見つかるはずだ。
(ちなみに以下には対称とは言えないものも含まれている。)
■2の対称性
・男と女
・裏と表
・自と他
・有と無
・真と偽
・右と左
・光と影
・実数と虚数
・正と負
・生と死
・始まりと終わり
・天国と地獄
・物質と反物質
・賢者と愚者
■3の対称性
・XYZ
・クォーク
・ぐー、ちょき、ぱー
・R、G、B
・金、銀、銅
・固体、液体、気体
・カラーテレビ、自動車、クーラー
・タンパク質、炭水化物、脂肪
・神、イエス、精霊
・神、悪魔、人間
・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ
・魏、呉、蜀
・陸、海、空
■4の対称性
・加法、減法、乗法、除法
・4次元空間(x,y,z,t)
・A、G、C、T (DNA)
・東、西、南、北
・前、後、左、右
・春、夏、秋、冬
・地、水、火、風
・起、承、転、結
・風、林、火、山
・生、老、病、死
・ハート、スペード、ダイヤ、クラブ
あるものの構成要素の数は、単純に、1か2か3か4か・・・と分類されるが、それらの数の一致をもって何かを言うというのは危険である。
あるものが似ているからと言って、それらが同じ性質をもつとは限らない。
類推が成り立つのは、それらが結果的に同じ法則に従う場合だけだ。(例えば、同じ方程式に従うなど。)
上位概念は蓋然的ないくつかの要素から帰納的に仮定され、演繹的に検証される。そのため、ある「似ている」ものを見つけると、それらが他の面でも同じ性質を持つと考えたくなってしまうものであるが、実際にはそういえることは少ない。
「似ている」ものの中でも特に「構成要素の数」は極めてありふれており、出会う機会が多いだけに注意が必要である。
「構成要素の数」の対称性には例えば次のようなものがある。これらのものを即座に結び付けてしまうのは誤謬である。これらはその「構成要素の数」以上の関連性が無いかもしれない。
これらを見て、「関係がある!」と思ってしまった人は、よくよく考えてみよう。「何が違うか」を考えれば、おそらくそれらの間に同じとは言えない反例が見つかるはずだ。
(ちなみに以下には対称とは言えないものも含まれている。)
■2の対称性
・男と女
・裏と表
・自と他
・有と無
・真と偽
・右と左
・光と影
・実数と虚数
・正と負
・生と死
・始まりと終わり
・天国と地獄
・物質と反物質
・賢者と愚者
■3の対称性
・XYZ
・クォーク
・ぐー、ちょき、ぱー
・R、G、B
・金、銀、銅
・固体、液体、気体
・カラーテレビ、自動車、クーラー
・タンパク質、炭水化物、脂肪
・神、イエス、精霊
・神、悪魔、人間
・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ
・魏、呉、蜀
・陸、海、空
■4の対称性
・加法、減法、乗法、除法
・4次元空間(x,y,z,t)
・A、G、C、T (DNA)
・東、西、南、北
・前、後、左、右
・春、夏、秋、冬
・地、水、火、風
・起、承、転、結
・風、林、火、山
・生、老、病、死
・ハート、スペード、ダイヤ、クラブ
2011年12月13日火曜日
知るとは何か
知るということについて、少し考えてみよう。
釈迦は苦しみは無明(簡単に言うと知らないこと)によって生まれると言った。では知らないほうが良い事というのはあるだろうか?何かを知ろうとするモチベーションは何だろうか?どのようなものから知れば良いのだろうか?また、効率よく知るにはどうしたらよいのだろうか?ところで、知識とは何だろうか?逆に忘れるとはどういうことだろうか?
結局、知るということはどういうことなのだろうか。それらを以下で解説する。
■知れば知るほど良いのか?
知って損をするということはあるだろうか?損をすることが無ければ、知識は無条件に得るべしということになるが、経験的には損の仕方は次の2通りがありそうだ。
①気分を害する。
②他者にとって都合が悪くなる。
①は、気分の問題だ。恋人の恋愛遍歴や、ある美談の裏話、まずそうな食べ物の味など、本当に知って良かったか疑問が残ることはある。「知らないほうが幸せだった」「知って損した」という言い方に代表される。知識はある物事の判断基準になる以上、論理的には知らないより知っていたほうが良いということが言える。しかし、論理の世界を外れると一概にそうとは言えない。
②は、秘密にあたるものだ。「秘密を知ったからには生きては返さん」のように、秘密とされる事柄を知った場合に起こる。場合によっては圧力をかけられたりすることもあるだろう。より広く言えば、権力者にとって不利な状況になるような知識ということになる。ただし、必ずしも被害がでるとは限らず、直接の被害が出るかは程度問題である。
つまり、論理的に判断すべき範疇にあって、権力者の直接の秘密にあたるものでないものであれば、知っているのにこしたことは無い。
■「知らない」ことが「知る」モチベーションとなる
知ろうというモチベーションは「知らない」ということから生み出されるように思う。なぜなら、「知っている」ことを「知る」ことには意味が無いからだ。(経済の言葉で言えば、限界効用が0ということになる。)「知っている」ことには価値がなく、「知らない」ことだけに価値がある。だから「知らない」ことを「知りたい」と思うわけだ。
しかし、注意が必要なのは、実際の知るべきかどうかの価値判断は、「知らない」ことではなく、「知らないと思われる」ことに基づいてなされるという点だ。本は読んでみなければ、何が書いてあるかは分からないし、食べ物の味は食べてみないと分からない。つまり、「知っている」かどうかは知ってみるまで分からないのだ。
だから、本当は「知らない」から「知りたい」のではなく、「知らない」と思うから「知りたい」のである。
そこで、「知っている」と勘違いしていることを正しく知るには、「本当に知っているかどうか」を疑うことが重要になってくる。そのためには、「知っている」ということを01ではなく程度で考えると良い。具体的には
①名前を知っている。
②内容を聞いたことがある。
③要点を説明できる。
の3段階で考えればよいだろう。③までいけば、「知っている」とみなしても良い。
■知識の優先順位は複数ある
さて、デメリットの無い知識はあればあるだけ良いと考えられるが、情報の収集や知識の修得には時間がかかるため、時間に見合わないと思えることや、無駄と思えることもあるだろう。そこで、どのようなことから知っていくべきかという取捨選択をする必要がある。では、その判断基準は何だろう。
列挙してみると次のようになる。
①ゴールとの合致
②好みとの合致
③他者の評価との合致
④脱線
⑤無作為
①は、ゴール(目標)に関係ありそうな事柄を優先するやり方である。これには、ゴールの設定が必要である。
②は、好みを優先するものである。それは知って楽しいということである。これは重要なことであるが、内容が偏りやすいという欠点もある。
③は、名著と呼ばれているものだとか、売れている本ランキングだとか、好みやゴールではなく、他者の評価の高いものを優先するやり方である。これは情報にある程度の信頼が持てる。
④は、当初の目的でないものにシフトしていくやり方である。これは、たまたま何かを見つけて世界が広がる可能性がある。簡単に言えば脱線するということである。
⑤は、無作為に選ぶということである。これは、意味が無い。無作為に選んで、重要な情報にあたる可能性は低い。(例えば、すべてのウェブサイトからランダムに1つのページを開くことを想像してみればよい。)
ちなみにナレッジダイビングでは、①~④をうまく複合している。
■知れば知るほど速くなる
優先順位と別に大事になるのが、収集、修得にかかる時間だ。この絶対スピードが速ければ優先順位をそれほどシビアにすることなく、網羅的に知ることが出来る。このスピードには3つの要素がある。
①文字を認識する速さ
②事前知識の量
③理解する速さ
①は、単純に読む速さである。特に言語で記述された情報、知識についてはこれがクリティカルに効いてくる。これは練習次第で極めて速くなるとされる。(実際に極めて速く読める人が存在する。)
②は、書いてある語句の意味が分かるかどうかである。例えば、wikipediaのアインシュタインの項には「アルベルト・アインシュタインは、『ドイツ』生まれの『ユダヤ人』『理論物理学者』。」と書いてある。この時、「ドイツ」や「ユダヤ人」、「理論物理学者」という語句が何を意味するかを知らなければ、この文章は「アルベルト・アインシュタインは、『とある国』生まれの『とある人種の』『とある職業の人』。」と言っているのと変わらない。つまり、語句について「名前を知っている」レベルでは読んだとしても、読めたことにはならない。逆に言えば事前知識が多ければ多いほど、このような無駄が無くなり、単位時間当たりに実質的に読める量が増える。
③は、事柄を理解する速さである。語句の意味が分かったとしても、その文章全体が何を意味しているかを理解しなければ、その内容を知ったことにはならない。そのため、情報の意味を理解する速さが重要となる。理解する速さは、抽象思考の訓練によって高めることができる。
■知識はネットワークである
知る対象、特にここでは知識について述べる。
知識というものは、それだけで独立したものは存在せず、必ずネットワークになっている。ある知識について説明するには他のものを持ち出すしかないということを思い起こせば良いだろう。これはある知識についての定義のネットワークであり、仏教の言葉で言えば縁起である。
あることを知るということは、それに付随するネットワークを探索することに他ならない。この探索手法は大きく分けて2つに別れる。
①下位概念の参照
②芋づる
①は、下位概念(外延)を網羅するやり方である。例えば、犬の犬種一覧からすべての犬種を調べるなどいうような調べ方である。ある限られた範囲を網羅したい場合に向いている。ただし、「あ」のつくものなど、必ずしも適切とは言えない様な上位概念もある。そのようなものは、各下位概念間の関係性が少ないため、上位概念の深い理解につながるとは考えにくい。
②は、概念の抽象度に関係なく、定義のネットワークを参照していく方法である。例えば、犬にまつわる事柄(動物、食性、人間との関係など)から別の項目に移る。犬→ペット→癒し、犬→生物→DNAなど、色々な方向にすばやく移動できる。この方法はネットワークの全体像を把握するのに向いている。また、予期せぬ発見も生まれやすい。これは相互定義のネットワークであり、連想とは若干異なる。
②の方法はナレッジダイビングで用いられる。
■知識は階層性を持つ
また、知識は抽象度の順に並べ替えると階層構造になっている。一見多種多様に見える知識も、上位概念のゲシュタルトが出来れば、ある共通性を持ったまとまりに見える。上位概念について成り立つことは下位概念にも成り立つため、より上位にある知識について理解すると適用範囲が広く有用である。
このような、階層的知識を得る手段としては2つの方法がある。
①帰納的
②演繹的
①は、ある下位概念を網羅することにより、そこから共通の上位概念導き出すものである。
②は、ある上位概念を用いて、その下位概念となるべきものを説明するものである。
これらの方法は一般には複合しており、プロセスとしては、まずいくつかの概念から導き出される上位概念を仮定し、その上位概念が、下位となるべき概念をどの程度説明するかという形で用いられる。つまり、上位概念は帰納的に仮定され、演繹的に検証される。
このようなプロセスを経て、ある知識についての理解レベルは「内容に触れたことがある」から「要点を説明できる」に到る。一説によれば、「要点を説明できる」レベルに理解した事柄は無意識によるバックグラウンド処理が可能になり、問題解決を圧倒的に助けると言われている。
■抽象度の高いものは忘れない
知識は、無意識が重要ではないと判断したものについては長期記憶に移行されず忘れられる。この長期記憶への移行は主に睡眠中に行われていると言われている。
忘れるということについては次の2つの考え方がある。
①記憶が定着しなかった。
②思い出せないだけ。
①は、定着のプロセスに問題があり、②は思い出すプロセスに問題がある。これらを回避するためには、それぞれに対応して次の手段がある。
①重要度を上げる
②思い出す
①は、定着されるよう無意識にとっての重要度を上げる手段である。人間はどちらかというと成功よりも失敗から学ぶ方が優位になっている。成功した事柄よりも、失敗した事柄の方が生存に関係する可能性が高いからだ。そこで、わざと間違えるというのが手段としてありうる。間違えるために「説明しようと試みる」ことも有効と考えられる。
②は、思い出すことによって、神経回路を強化することである。何度も思い出していれば、記憶を引き出し易くなる。
ただし、そもそも忘れるという現象は極めてありふれており、そこに神経質になる必要はない。ある本を読んだ後にその文章すべてを暗誦できるかを考えてみれば、短期記憶はほとんどが失われる性質のものであることが分かる。
その点を踏まえると、知識を修得する際に重要なことは、その細部ではなく抽象的理解である。これはゲシュタルトの構築とも言われる。抽象的理解をすることによるメリットは次のようなものがある。
1つめは、単にその記述量が少ないということだ。抽象的理解は短い言葉で表すことができ、覚えやすい。2つめは、抽象度の高い概念は、常に刺激されるということである。これは忘却の防止につながる。抽象度の高い概念は、その下位概念に帰納的、演繹的に関連付けられているため、下位概念が刺激されると、同時に上位概念も刺激される。それによって、抽象的理解は常に利用可能なものとして保持される。このような2つの効果により、抽象的理解は覚え易く、忘れにくい性質がある。
■知るとは知識ネットワークのゲシュタルト化である
以上のことをまとめると、知るということは、ある知識についてのネットワークを階層的に理解(ゲシュタルト化)することだと言える。そして、その抽象度が高ければその知識はよく保持される。また、その前提知識(ゲシュタルトの量)が、更なる知識の修得スピードを左右するため、知れば知るほど知識の修得効率は向上する。
釈迦は苦しみは無明(簡単に言うと知らないこと)によって生まれると言った。では知らないほうが良い事というのはあるだろうか?何かを知ろうとするモチベーションは何だろうか?どのようなものから知れば良いのだろうか?また、効率よく知るにはどうしたらよいのだろうか?ところで、知識とは何だろうか?逆に忘れるとはどういうことだろうか?
結局、知るということはどういうことなのだろうか。それらを以下で解説する。
■知れば知るほど良いのか?
知って損をするということはあるだろうか?損をすることが無ければ、知識は無条件に得るべしということになるが、経験的には損の仕方は次の2通りがありそうだ。
①気分を害する。
②他者にとって都合が悪くなる。
①は、気分の問題だ。恋人の恋愛遍歴や、ある美談の裏話、まずそうな食べ物の味など、本当に知って良かったか疑問が残ることはある。「知らないほうが幸せだった」「知って損した」という言い方に代表される。知識はある物事の判断基準になる以上、論理的には知らないより知っていたほうが良いということが言える。しかし、論理の世界を外れると一概にそうとは言えない。
②は、秘密にあたるものだ。「秘密を知ったからには生きては返さん」のように、秘密とされる事柄を知った場合に起こる。場合によっては圧力をかけられたりすることもあるだろう。より広く言えば、権力者にとって不利な状況になるような知識ということになる。ただし、必ずしも被害がでるとは限らず、直接の被害が出るかは程度問題である。
つまり、論理的に判断すべき範疇にあって、権力者の直接の秘密にあたるものでないものであれば、知っているのにこしたことは無い。
■「知らない」ことが「知る」モチベーションとなる
知ろうというモチベーションは「知らない」ということから生み出されるように思う。なぜなら、「知っている」ことを「知る」ことには意味が無いからだ。(経済の言葉で言えば、限界効用が0ということになる。)「知っている」ことには価値がなく、「知らない」ことだけに価値がある。だから「知らない」ことを「知りたい」と思うわけだ。
しかし、注意が必要なのは、実際の知るべきかどうかの価値判断は、「知らない」ことではなく、「知らないと思われる」ことに基づいてなされるという点だ。本は読んでみなければ、何が書いてあるかは分からないし、食べ物の味は食べてみないと分からない。つまり、「知っている」かどうかは知ってみるまで分からないのだ。
だから、本当は「知らない」から「知りたい」のではなく、「知らない」と思うから「知りたい」のである。
そこで、「知っている」と勘違いしていることを正しく知るには、「本当に知っているかどうか」を疑うことが重要になってくる。そのためには、「知っている」ということを01ではなく程度で考えると良い。具体的には
①名前を知っている。
②内容を聞いたことがある。
③要点を説明できる。
の3段階で考えればよいだろう。③までいけば、「知っている」とみなしても良い。
■知識の優先順位は複数ある
さて、デメリットの無い知識はあればあるだけ良いと考えられるが、情報の収集や知識の修得には時間がかかるため、時間に見合わないと思えることや、無駄と思えることもあるだろう。そこで、どのようなことから知っていくべきかという取捨選択をする必要がある。では、その判断基準は何だろう。
列挙してみると次のようになる。
①ゴールとの合致
②好みとの合致
③他者の評価との合致
④脱線
⑤無作為
①は、ゴール(目標)に関係ありそうな事柄を優先するやり方である。これには、ゴールの設定が必要である。
②は、好みを優先するものである。それは知って楽しいということである。これは重要なことであるが、内容が偏りやすいという欠点もある。
③は、名著と呼ばれているものだとか、売れている本ランキングだとか、好みやゴールではなく、他者の評価の高いものを優先するやり方である。これは情報にある程度の信頼が持てる。
④は、当初の目的でないものにシフトしていくやり方である。これは、たまたま何かを見つけて世界が広がる可能性がある。簡単に言えば脱線するということである。
⑤は、無作為に選ぶということである。これは、意味が無い。無作為に選んで、重要な情報にあたる可能性は低い。(例えば、すべてのウェブサイトからランダムに1つのページを開くことを想像してみればよい。)
ちなみにナレッジダイビングでは、①~④をうまく複合している。
■知れば知るほど速くなる
優先順位と別に大事になるのが、収集、修得にかかる時間だ。この絶対スピードが速ければ優先順位をそれほどシビアにすることなく、網羅的に知ることが出来る。このスピードには3つの要素がある。
①文字を認識する速さ
②事前知識の量
③理解する速さ
①は、単純に読む速さである。特に言語で記述された情報、知識についてはこれがクリティカルに効いてくる。これは練習次第で極めて速くなるとされる。(実際に極めて速く読める人が存在する。)
②は、書いてある語句の意味が分かるかどうかである。例えば、wikipediaのアインシュタインの項には「アルベルト・アインシュタインは、『ドイツ』生まれの『ユダヤ人』『理論物理学者』。」と書いてある。この時、「ドイツ」や「ユダヤ人」、「理論物理学者」という語句が何を意味するかを知らなければ、この文章は「アルベルト・アインシュタインは、『とある国』生まれの『とある人種の』『とある職業の人』。」と言っているのと変わらない。つまり、語句について「名前を知っている」レベルでは読んだとしても、読めたことにはならない。逆に言えば事前知識が多ければ多いほど、このような無駄が無くなり、単位時間当たりに実質的に読める量が増える。
③は、事柄を理解する速さである。語句の意味が分かったとしても、その文章全体が何を意味しているかを理解しなければ、その内容を知ったことにはならない。そのため、情報の意味を理解する速さが重要となる。理解する速さは、抽象思考の訓練によって高めることができる。
■知識はネットワークである
知る対象、特にここでは知識について述べる。
知識というものは、それだけで独立したものは存在せず、必ずネットワークになっている。ある知識について説明するには他のものを持ち出すしかないということを思い起こせば良いだろう。これはある知識についての定義のネットワークであり、仏教の言葉で言えば縁起である。
あることを知るということは、それに付随するネットワークを探索することに他ならない。この探索手法は大きく分けて2つに別れる。
①下位概念の参照
②芋づる
①は、下位概念(外延)を網羅するやり方である。例えば、犬の犬種一覧からすべての犬種を調べるなどいうような調べ方である。ある限られた範囲を網羅したい場合に向いている。ただし、「あ」のつくものなど、必ずしも適切とは言えない様な上位概念もある。そのようなものは、各下位概念間の関係性が少ないため、上位概念の深い理解につながるとは考えにくい。
②は、概念の抽象度に関係なく、定義のネットワークを参照していく方法である。例えば、犬にまつわる事柄(動物、食性、人間との関係など)から別の項目に移る。犬→ペット→癒し、犬→生物→DNAなど、色々な方向にすばやく移動できる。この方法はネットワークの全体像を把握するのに向いている。また、予期せぬ発見も生まれやすい。これは相互定義のネットワークであり、連想とは若干異なる。
②の方法はナレッジダイビングで用いられる。
■知識は階層性を持つ
また、知識は抽象度の順に並べ替えると階層構造になっている。一見多種多様に見える知識も、上位概念のゲシュタルトが出来れば、ある共通性を持ったまとまりに見える。上位概念について成り立つことは下位概念にも成り立つため、より上位にある知識について理解すると適用範囲が広く有用である。
このような、階層的知識を得る手段としては2つの方法がある。
①帰納的
②演繹的
①は、ある下位概念を網羅することにより、そこから共通の上位概念導き出すものである。
②は、ある上位概念を用いて、その下位概念となるべきものを説明するものである。
これらの方法は一般には複合しており、プロセスとしては、まずいくつかの概念から導き出される上位概念を仮定し、その上位概念が、下位となるべき概念をどの程度説明するかという形で用いられる。つまり、上位概念は帰納的に仮定され、演繹的に検証される。
このようなプロセスを経て、ある知識についての理解レベルは「内容に触れたことがある」から「要点を説明できる」に到る。一説によれば、「要点を説明できる」レベルに理解した事柄は無意識によるバックグラウンド処理が可能になり、問題解決を圧倒的に助けると言われている。
■抽象度の高いものは忘れない
知識は、無意識が重要ではないと判断したものについては長期記憶に移行されず忘れられる。この長期記憶への移行は主に睡眠中に行われていると言われている。
忘れるということについては次の2つの考え方がある。
①記憶が定着しなかった。
②思い出せないだけ。
①は、定着のプロセスに問題があり、②は思い出すプロセスに問題がある。これらを回避するためには、それぞれに対応して次の手段がある。
①重要度を上げる
②思い出す
①は、定着されるよう無意識にとっての重要度を上げる手段である。人間はどちらかというと成功よりも失敗から学ぶ方が優位になっている。成功した事柄よりも、失敗した事柄の方が生存に関係する可能性が高いからだ。そこで、わざと間違えるというのが手段としてありうる。間違えるために「説明しようと試みる」ことも有効と考えられる。
②は、思い出すことによって、神経回路を強化することである。何度も思い出していれば、記憶を引き出し易くなる。
ただし、そもそも忘れるという現象は極めてありふれており、そこに神経質になる必要はない。ある本を読んだ後にその文章すべてを暗誦できるかを考えてみれば、短期記憶はほとんどが失われる性質のものであることが分かる。
その点を踏まえると、知識を修得する際に重要なことは、その細部ではなく抽象的理解である。これはゲシュタルトの構築とも言われる。抽象的理解をすることによるメリットは次のようなものがある。
1つめは、単にその記述量が少ないということだ。抽象的理解は短い言葉で表すことができ、覚えやすい。2つめは、抽象度の高い概念は、常に刺激されるということである。これは忘却の防止につながる。抽象度の高い概念は、その下位概念に帰納的、演繹的に関連付けられているため、下位概念が刺激されると、同時に上位概念も刺激される。それによって、抽象的理解は常に利用可能なものとして保持される。このような2つの効果により、抽象的理解は覚え易く、忘れにくい性質がある。
■知るとは知識ネットワークのゲシュタルト化である
以上のことをまとめると、知るということは、ある知識についてのネットワークを階層的に理解(ゲシュタルト化)することだと言える。そして、その抽象度が高ければその知識はよく保持される。また、その前提知識(ゲシュタルトの量)が、更なる知識の修得スピードを左右するため、知れば知るほど知識の修得効率は向上する。
2011年12月4日日曜日
【ストーリー解析】映画「けいおん!」
2011/12/3に公開された映画「けいおん!」のストーリー解析をする。
*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。
■基本情報
原作 - かきふらい
監督 - 山田尚子
脚本 - 吉田玲子
アニメーション制作 - 京都アニメーション
脚本はアニメ「けいおん!」および「けいおん!!」で十数話を手がけた吉田玲子。ただし、アニメ映画という性質上、独断でストーリーをつけられるとは思えないため、大まかな内容については話し合いで決められたと推測される。
■あらすじ
あらすじを簡単に言うと、卒業旅行でロンドンに行きつつ、最後はあずにゃんに曲(天使にふれたよ)をプレゼントするという内容。公式のあらすじで公開されていないのは、映画が『天使にふれたよ』にまつわるエピソードであるという点であり、これがいわゆるネタバレにあたる。
■ドライバー
メインドライバー(主要ストーリーの根幹)は先ほど触れたように
1.卒業旅行でロンドンに行く(L)
2.あずにゃんに曲を贈る(L)
の2つ。TV版との関係で言うと、最終回「卒業式!」であずにゃんに贈られた劇中歌「天使にふれたよ」の裏話になっている。
(ちなみに時系列としては、唯たちの合格発表と卒業式の間の話である。TV版で放映された#22「受験!」#23「放課後!」の間にあたる。)
劇中では3つのライブシーンがあるが、すべてメインドライバーと独立して描かれている。ライブシーンは映画としての強度を高めるために加えられていると考えられるが、ストーリーとはほぼ関係がなく挿入間はいなめない。そこで、ライブシーンはサブドライバーとして扱うことにする。
サブドライバーも含めるとストーリー構造は次のようになる。
L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)
|
L それとは別に卒業旅行も計画する。
|
L ロンドンに行く。
|
P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
(=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))
|
F ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。
|
P ★日本の文化フェスティバルに参加することになり、ライブをやる。
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L 「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。
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P ロンドンから帰国。
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L ★最終登校日ライブを計画。
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L ★最終登校日ライブをする。
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L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。(ライブの前だったかな?)
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L 卒業式に梓に曲をプレゼントする。
★はメインドライバーに関係のないサブドライバー。
マクロに見ると
Lーーー-ーP =ロンドン旅行
L-ーーFーー-ーーL =曲を贈る
PーーPーーL =3回のライブ
という構成。
見ての通り、テクニカルなストーリー構造がほとんど無い。ほとんど、「~を計画」、「~をやった」で構成されている。
このストーリー構造のなさ具合は、後述する演出と関係があると考えられる。
■演出
この映画のコンセプトはおそらく、「放課後ティータイムといっしょにロンドン旅行しているような感覚になってもらう」ということと、「『天使にふれたよ』のエピソードを、唯たち送る側の視点で描く」の2つだろう。(これらはメインドライバーに対応している。ちなみにTV版では曲を贈られるあずにゃん側の視点が描かれた。)
1つ目については具体的に、旅行の申し込み、準備、行きの飛行機、空港、ホテルのチェックイン、帰りの飛行機など旅行に関係する全ての行程が省略されずに描かれている点、イギリス人の英語に字幕がついていない点などが挙げられる。これらはロンドン旅行を唯たちといっしょに「擬似体験」するための演出である。
2つ目については、秘密で準備するのにどきどきしている紬のメール、ホテルで夜に4人で集まって相談する描写、演奏する前に唯たち4人が緊張している様子など、TV版では描かれていなかった唯たち側の「気持ち」が描かれている。
■総評
ストーリーはこの映画の主要テーマではない。視聴者を魅了するのは、ストーリーではなく、放課後ティータイムと行くロンドン旅行の「疑似体験」である。旅はどこに行くかではなく、誰と行くかが重要だと言われるが、この映画も同じである。魅力的なのは、ロンドンでも、旅先のライブでも、歌を贈るというストーリーでもない。そのひとつひとつのなんでもない場面で見せる登場人物の反応や仕草こそが、この映画の最大の魅力なのである。そのためストーリーに関係のない演出が非常に多い。
視聴者の多くはすでにTV版を通して登場人物のノリを熟知している。
映画「けいおん!」はバーチャルな世界に構築されたユートピア的人間関係の結晶であり、訓練された視聴者はそれを享受しているかのように体験することが出来る。
今回の劇場版は、唯たち放課後ティータイムと「もっといっしょにいたい」という視聴者に答えた「アンコール」という言葉がふさわしい。
----------------------------------------------------------
以下、ストーリー構造上の改善策。
■いくつかの疑問
ストーリー上、不自然なエピソードがいくつかある。特に、ライブはすべて挿入的であり、メインドライバーと関連性が薄い。そのため、これらをメインドライバーに組み込めばストーリー構造を強化することが可能である。ただし、今作の演出上、ストーリーは強くなくてもよいのかもしれない。
①アフタヌーンティー(L-F)
なぜか、アフタヌーンティーは「予約が必要」という良く分からない理由で失敗する。ギャグや悲劇で無い限り、普通はL-F-Lとなり、アフタヌーンティーと呼べそうなエピソードにつながって望みが叶うのだが、そういったシーンが無い。旅行だとそういう残念なこともありがちだよねということなんだろう。
②飛び入りライブ(P)
「たまたまいたからやって欲しい」というよく分からない理由で参加。ロンドンでの大きなエピソードにも関わらず、メインドライバーとの関連性が極めて薄い。
③さわ子登場(P)
なぜか、飛び入りライブの直前にさわ子が登場する。登場したはいいが、何もしない。出てきただけである。
④最終登校日ライブ(L)
クラスメイトの「ライブやってよー」との発案でやることに。その計画を潰そうとする謎の男性教員が登場するが、最後はよく分からない理由で折れる。詳細に見れば、「最終登校日ライブを計画する(L)も、ある男性教員に妨害されそうになる(E)。それをさわ子先生が影ながら助ける(G)。そしてライブは大成功(L)。(L-E-G-L)」と読める。しかし、そもそもそんな悶着はいらない気がする。
⑤梓からの返答(L-L)
普通のストーリー構成であれば、曲を披露した後に、梓からの返答(L)が入る。しかし、映画版では、すでに描かれたTV版を踏まえて返答に関するエピソードは簡素なものになっている。これは、TV版で描かれたのが「先輩が卒業してしまうという悲しさ(E)」に対して、「卒業は終わりじゃない、これからも仲間だよ」という歌のメッセージによる解決(G(L))であったため、「梓の悲しみが描かれない以上、返答は描くことが出来ない」から。また、TV版と同じシーンになってしまうからだと思われる。
■構造強化の一例
①アフタヌーンティー
L-F-Lとなるよう、お茶するシーンをどっかに入れる。たまたまもらう、フェスティバルライブ前に差し入れされるなどがありえる。
②③飛び入りライブ&さわ子登場
フェスティバルライブに飛び入りする段取りをさわ子にやってもらう。そうすればさわ子も自然に参加できるし、ライブ決定のインパクトが強くなる。また、「顧問」としてのさわ子の重要性も強調できる。
④⑤最終登校日ライブ&梓からの返答
誰得な男性教員かぎつけエピソードはカット。最終登校日ライブで、嬉しそうな梓、ちょっと悲しそうな梓のシーンを入れれば、楽しかった卒業旅行との対比で、梓の寂しさが描ける。それによって、王道的なE-G(L)となり、以降のエピソードが映える。また、これによってTV版の見え方も少し変わるはずだ。
これらを踏まえると次のようになる。
L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)
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L それとは別に卒業旅行も計画する。
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P さわ子が卒業旅行の話を知る。(伏線)
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L ロンドンに行く。
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P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
(=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))
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E ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。
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P 突然現れたさわ子の手引きにより、日本の文化フェスティバルに参加する。
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G さわ子の助言やライブの感触により、「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。
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P ロンドンから帰国。
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L 最終登校日ライブをする。
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E 梓が卒業する先輩との別れを感じ始める。
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L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。
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L(G) 卒業式に梓に曲をプレゼントする。
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L 梓喜ぶ。
これでライブがストーリー構造に関連付けられ、ストーリーの強度が増した。
*完全にネタバレなので、まだ見ていない人は見ましょう。
■基本情報
原作 - かきふらい
監督 - 山田尚子
脚本 - 吉田玲子
アニメーション制作 - 京都アニメーション
脚本はアニメ「けいおん!」および「けいおん!!」で十数話を手がけた吉田玲子。ただし、アニメ映画という性質上、独断でストーリーをつけられるとは思えないため、大まかな内容については話し合いで決められたと推測される。
■あらすじ
あらすじを簡単に言うと、卒業旅行でロンドンに行きつつ、最後はあずにゃんに曲(天使にふれたよ)をプレゼントするという内容。公式のあらすじで公開されていないのは、映画が『天使にふれたよ』にまつわるエピソードであるという点であり、これがいわゆるネタバレにあたる。
■ドライバー
メインドライバー(主要ストーリーの根幹)は先ほど触れたように
1.卒業旅行でロンドンに行く(L)
2.あずにゃんに曲を贈る(L)
の2つ。TV版との関係で言うと、最終回「卒業式!」であずにゃんに贈られた劇中歌「天使にふれたよ」の裏話になっている。
(ちなみに時系列としては、唯たちの合格発表と卒業式の間の話である。TV版で放映された#22「受験!」#23「放課後!」の間にあたる。)
劇中では3つのライブシーンがあるが、すべてメインドライバーと独立して描かれている。ライブシーンは映画としての強度を高めるために加えられていると考えられるが、ストーリーとはほぼ関係がなく挿入間はいなめない。そこで、ライブシーンはサブドライバーとして扱うことにする。
サブドライバーも含めるとストーリー構造は次のようになる。
L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)
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L それとは別に卒業旅行も計画する。
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L ロンドンに行く。
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P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
(=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))
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F ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。
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P ★日本の文化フェスティバルに参加することになり、ライブをやる。
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L 「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。
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P ロンドンから帰国。
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L ★最終登校日ライブを計画。
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L ★最終登校日ライブをする。
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L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。(ライブの前だったかな?)
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L 卒業式に梓に曲をプレゼントする。
★はメインドライバーに関係のないサブドライバー。
マクロに見ると
Lーーー-ーP =ロンドン旅行
L-ーーFーー-ーーL =曲を贈る
PーーPーーL =3回のライブ
という構成。
見ての通り、テクニカルなストーリー構造がほとんど無い。ほとんど、「~を計画」、「~をやった」で構成されている。
このストーリー構造のなさ具合は、後述する演出と関係があると考えられる。
■演出
この映画のコンセプトはおそらく、「放課後ティータイムといっしょにロンドン旅行しているような感覚になってもらう」ということと、「『天使にふれたよ』のエピソードを、唯たち送る側の視点で描く」の2つだろう。(これらはメインドライバーに対応している。ちなみにTV版では曲を贈られるあずにゃん側の視点が描かれた。)
1つ目については具体的に、旅行の申し込み、準備、行きの飛行機、空港、ホテルのチェックイン、帰りの飛行機など旅行に関係する全ての行程が省略されずに描かれている点、イギリス人の英語に字幕がついていない点などが挙げられる。これらはロンドン旅行を唯たちといっしょに「擬似体験」するための演出である。
2つ目については、秘密で準備するのにどきどきしている紬のメール、ホテルで夜に4人で集まって相談する描写、演奏する前に唯たち4人が緊張している様子など、TV版では描かれていなかった唯たち側の「気持ち」が描かれている。
■総評
ストーリーはこの映画の主要テーマではない。視聴者を魅了するのは、ストーリーではなく、放課後ティータイムと行くロンドン旅行の「疑似体験」である。旅はどこに行くかではなく、誰と行くかが重要だと言われるが、この映画も同じである。魅力的なのは、ロンドンでも、旅先のライブでも、歌を贈るというストーリーでもない。そのひとつひとつのなんでもない場面で見せる登場人物の反応や仕草こそが、この映画の最大の魅力なのである。そのためストーリーに関係のない演出が非常に多い。
視聴者の多くはすでにTV版を通して登場人物のノリを熟知している。
映画「けいおん!」はバーチャルな世界に構築されたユートピア的人間関係の結晶であり、訓練された視聴者はそれを享受しているかのように体験することが出来る。
今回の劇場版は、唯たち放課後ティータイムと「もっといっしょにいたい」という視聴者に答えた「アンコール」という言葉がふさわしい。
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以下、ストーリー構造上の改善策。
■いくつかの疑問
ストーリー上、不自然なエピソードがいくつかある。特に、ライブはすべて挿入的であり、メインドライバーと関連性が薄い。そのため、これらをメインドライバーに組み込めばストーリー構造を強化することが可能である。ただし、今作の演出上、ストーリーは強くなくてもよいのかもしれない。
①アフタヌーンティー(L-F)
なぜか、アフタヌーンティーは「予約が必要」という良く分からない理由で失敗する。ギャグや悲劇で無い限り、普通はL-F-Lとなり、アフタヌーンティーと呼べそうなエピソードにつながって望みが叶うのだが、そういったシーンが無い。旅行だとそういう残念なこともありがちだよねということなんだろう。
②飛び入りライブ(P)
「たまたまいたからやって欲しい」というよく分からない理由で参加。ロンドンでの大きなエピソードにも関わらず、メインドライバーとの関連性が極めて薄い。
③さわ子登場(P)
なぜか、飛び入りライブの直前にさわ子が登場する。登場したはいいが、何もしない。出てきただけである。
④最終登校日ライブ(L)
クラスメイトの「ライブやってよー」との発案でやることに。その計画を潰そうとする謎の男性教員が登場するが、最後はよく分からない理由で折れる。詳細に見れば、「最終登校日ライブを計画する(L)も、ある男性教員に妨害されそうになる(E)。それをさわ子先生が影ながら助ける(G)。そしてライブは大成功(L)。(L-E-G-L)」と読める。しかし、そもそもそんな悶着はいらない気がする。
⑤梓からの返答(L-L)
普通のストーリー構成であれば、曲を披露した後に、梓からの返答(L)が入る。しかし、映画版では、すでに描かれたTV版を踏まえて返答に関するエピソードは簡素なものになっている。これは、TV版で描かれたのが「先輩が卒業してしまうという悲しさ(E)」に対して、「卒業は終わりじゃない、これからも仲間だよ」という歌のメッセージによる解決(G(L))であったため、「梓の悲しみが描かれない以上、返答は描くことが出来ない」から。また、TV版と同じシーンになってしまうからだと思われる。
■構造強化の一例
①アフタヌーンティー
L-F-Lとなるよう、お茶するシーンをどっかに入れる。たまたまもらう、フェスティバルライブ前に差し入れされるなどがありえる。
②③飛び入りライブ&さわ子登場
フェスティバルライブに飛び入りする段取りをさわ子にやってもらう。そうすればさわ子も自然に参加できるし、ライブ決定のインパクトが強くなる。また、「顧問」としてのさわ子の重要性も強調できる。
④⑤最終登校日ライブ&梓からの返答
誰得な男性教員かぎつけエピソードはカット。最終登校日ライブで、嬉しそうな梓、ちょっと悲しそうな梓のシーンを入れれば、楽しかった卒業旅行との対比で、梓の寂しさが描ける。それによって、王道的なE-G(L)となり、以降のエピソードが映える。また、これによってTV版の見え方も少し変わるはずだ。
これらを踏まえると次のようになる。
L 先輩らしく、後輩(梓)に何かしようと計画する。(曲を贈ることに)
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L それとは別に卒業旅行も計画する。
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P さわ子が卒業旅行の話を知る。(伏線)
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L ロンドンに行く。
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P ★ロンドンのすし屋で別のバンドと勘違いされライブをやる。
(=すしを食べたかったけど、食べ損ねた。でも憂の準備していた即席麺とかで満足(L-EーGーF(E)-G))
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E ビッグな曲を構想するが、中々思いつかない。
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P 突然現れたさわ子の手引きにより、日本の文化フェスティバルに参加する。
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G さわ子の助言やライブの感触により、「曲はいつもの感じでいいんだ」ということに気がつく。
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P ロンドンから帰国。
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L 最終登校日ライブをする。
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E 梓が卒業する先輩との別れを感じ始める。
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L 紬が曲を完成させ、みんなで歌詞を考える。
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L(G) 卒業式に梓に曲をプレゼントする。
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L 梓喜ぶ。
これでライブがストーリー構造に関連付けられ、ストーリーの強度が増した。
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