2013年7月5日金曜日

「かわいい」という危険思想

世の中には「かわいい」ものがあふれている。萌え文化の隆盛、ゆるキャラの勃興、アイドルグループの乱立、犬猫動画の拡散、その背後には「かわいい」という共通の価値観が存在する。多くの人が「かわいさ」を肯定し、それが心に安らぎを与えてくれるものだと好意的に解釈している。

しかしながら、私はその「かわいさ」に対して危険を感じずにはいられない。われわれは、「かわいい」に支配されているのかもしれない。

今回は「かわいい」とは何か、そしてその危険性について考えてみようと思う。


■かわいいとは何か?

そもそもかわいいとは何だろうか。その性質を分類してみると、以下のような3つの性質があることが分かる。

①女性的である
②小さい
③幼児性がある

これらの性質のうち1つでも満たしていればかわいいと呼ぶことができるようだ。

1つ目は、女性的であることである。男性にとってはセックスアピールがあるといっても良い。

男性から見る場合、かわいいは萌え系やアイドルなどに当てはまる。ただし、露骨なエロではなく、それを期待させるものである。これは、脳のプライミングの結果である。かわいい=エロではないが、それと隣接する領域であることは間違いない。

一方で、女性から見る場合は、性的であることではなく、女性らしさとほぼ同義である。女性らしさを想起させる場合には全てかわいいと評されるようだ。

2つ目は、小さいことである。これは単純な大きさのことである。同じ属性を持つもので、大きさが違う場合、小さいものの方がよりかわいいと判断される。例えば、キャベツとメキャベツはメキャベツの方がかわいい。ただし、小さければ小さいほどかわいいとは言えない。

どれが一番かわいい?

3つ目は、幼児性があることである。赤ちゃんや、幼児などがこれにあたる。また、年齢的なものでなく、幼児的な性質でもかまわない。例えば、無邪気、おっちょこちょい、甘えん坊、恥ずかしがり屋などはかわいいとされる。

これら3つを合わせて考えてみると、かわいいとは基本的には「保護の対象」に向けられる感情で、男性の場合「生殖の対象」でもありうるといえる。だとすれば、かわいいは種の保存と関係しており、人間にとってかなり普遍的な感情だと言えるだろう。


■かわいいの何が危険か

かわいいの危険性には、2つの側面がある。

1つ目は、かわいいの対象が本来の種の保存と関係のないものに拡大しているということである。2次元キャラも、アイドルも、ゆるキャラも、犬猫も人間が本来必要としているものではない。これらは、人間が遺伝的に持つ「かわいさ探知機」をいたずらに刺激しているものかもしれない。われわれは、かわいさに直面したときに、それが自身の何を刺激しているのかを冷静に分析する必要がある。

問題は、これらが本来の保護すべき対象、パートナーや乳児、幼児を越える可能性があることである。もし、かわいいという基準に従うことによって、本来保護すべき対象が除外されるなら、それは本末転倒と言わざるをえない。極論すれば、アフリカの飢えてる子供と二次元キャラのどちらがかわいいかという問題である。

現代では、かわいいは本来の役割を失った「娯楽」にすぎない。それを忘れたとき、かわいいは非常に危険な思想である。この場合、かわいいから保護するのではなく、保護する為にかわいいという感情が備わっていると解釈すべきだろう。

2つ目は、かわいいによる文化の破壊である。もし、かわいさが種の保存と関係しているなら、その感情はかなり本質的である。その場合、他の抽象的な概念よりも優先される可能性が高い。例えば、かっこいいという概念は、かわいいに比べ弱い。かわいいは本質的だが、かっこいいは遺伝子レベルで本質的とは思えないからである。人間には、美意識や、尊敬、誇り、克己心など、様々な感情があるが、それらを理解するにはある程度の訓練が必要だ。子供の感情の発達過程を見れば、これらの概念がかわいいよりも後に獲得されることは明らかだろう。

かわいいは、単純で強力だ。しかし、それは世界の原始的一側面にすぎない。かわいいは重要だが、すべてではない。われわれを取り巻く世界は、もっと多様で高度な関係性がある。それをわれわれは文化と呼ぶのである。かわいいによってコードされたものばかりを追い求める社会は異常である。かわいさに関係付けられることは悪いことではないが、そこには奥行きが必要である。
もし、その奥行きが不要というのであれば、それは文化に対しては破壊的である。


■かわいいの深化?

現代をかわいい探求時代と言うことも出来るかもしれない。ツンデレ、ヤンデレ、クーデレ、……、近年命名された概念は少なくない。「あざとい」という言葉も一昔前には聞かなかった。また、ファッション業界の推進により、化粧や服装などのバリエーションも拡大している。
しかし、キャラクターデザインの変化や、一昔前のルーズソックスの衰退ぶりをみてみると、「かわいい」の対象は普遍ではなく、モデルチェンジによって駆動されているようだ。

どうも、子供がかわいいや、犬猫がかわいいは普遍的な概念のようだが、女性的なかわいさは作られたもののようである。そう考えると、現代のかわいさのバリエーションの増加は、単なる情報化社会の流れに沿っているだけだろう。簡単に言えば、モデルチェンジのスピードが速くなっただけのことである。

ツンデレのように概念が確立されるということはあるだろう。しかし、その中で普遍的なものはやはり、小さいものと幼児性のあるものだろう。そういう意味では、多くのかわいいは流行の産物である。流行を流行と知って追いかけることは娯楽だが、それを普遍的価値だと勘違いすることには弊害がある。それが非進歩的なノスタルジーに変わることは明白だからである。

作られたかわいいは古くなる。それは避けられない道である。そのようなものに貴重な時間を割くのは本当に重要なことだろうか?

クリエイターは、かわいいの背後にある文化にこそ力を注ぐべきではないだろうか。