2011年10月9日日曜日

1日1回死ぬ生活~人生分割論~

■「私」という連続性

むかし、養老孟子氏の講演会に行ったことがある。そこで彼は、脳というものは「同じ」という機能を持つと言った。

なぜ、お店で買い物が出来るのか。それは商品とお金(ただの紙切れ)が脳の中で「同じ」価値を持つからだ。

本来、同じでないものを「同じ」とみなすこと、それが脳の機能である。

例えば、昨日の私と今日の私が「同じ」と認識するのも脳の働きだ。

もちろん今日の私は、髪が少し伸びていたり、代謝によって構成成分が変わっているだろう。しかし、それを「同じ」と捉えるのが脳の働きというわけだ。

さらに言えば、「同じ」ということを維持しようとする力も働く、これは自己恒常性維持機能(ホメオスタシス)と呼ばれている。

この力によって、私たちは常に「同じ」私でいつづけることが出来るわけだ。


■「私」という弊害

しかし、その私にも終わりは来る。死である。私たちは死について自覚することは出来ない。死んだら意識は無いからである。
そこで私たちは、死そのものではなく、死という概念と対峙している。

私たちの命は限られており、その先には「私」の死というものがある。「私」という限りある連続性は、より巨大な「社会」とか「生命」の連続性に包含されていく。

その巨大な連続性に引き継がれていくものは思想だとか、知識だとか、命そのものであり、個としての「私」ではない。

そこで、生きているうちに「私」というものから何かを成したいと考えるのは自然な事である。「私」とその死というものが、限りある「私」が成すべきことを教えてくれるのだ。

だが一方で、「私」というものは怠惰を生み出す原因にもなる。例を2つほど挙げよう。

まず、死という実感が薄いことである。命に限りがあるといっても、ほとんどの人間は病気にでもならない限り自分が死ぬという実感は無い。そこで「私」の長い人生の中の1日ぐらいサボっても構わないと考える。「私」がサボろうが働こうが損するのも得するのも「私」であるから自己責任で一行に構わない。そう考えると、「私」は怠惰の温床になる。

もう1つは、「私」より「誰か」の方が圧倒的に多いということである。「私」がやらなくても、そのうち「誰か」がやってくれると考えれば、「私」が成す意味は無くなる。ここでも「私」は怠惰の温床になる。これは「一身独立して、一国独立す」と言った福澤諭吉先生の憂いた状況でもある。


■私は1人か?

このような「私」の弊害から脱出し、「私」の心の声を聞き、情熱を燃やし続けるにはどうすればよいだろうか。

それは、「私」をもっと限りあるものにすることである。

先の講演の中で、「私」というものが実は不連続であるという話があった。「私」というものは連続ではなく、毎日途切れているというのだ。なぜだか、お分かりになるだろうか?

笑い話のようだが、夜寝るからである。寝ているときは意識が失われ「私」というものはない。だから、「私」というものは毎日途切れている。途切れているにも関わらず、朝目覚めたときに今日の「私」は昨日と同じ「私」だと思って疑わない。起きたとたんに「私は誰だろう」という人がいたら、手間がかかってしょうがない。

しかしその当たり前であることを、よく考えて欲しい。今日の「私」は本当に昨日の「私」と同じ「私」だろうか?

昨日の「私」を今日の「私」と別の人だと考える。それが「私」をもっと限りのあるものにする方法である。

記憶があるじゃないかと言う人もいるだろうが、記憶も含め、生活品や何から何までを引き継いで、今日という日にあなたは「新しく」生まれてくるのだ。

「私」は色んなものを引き継いではいるが、今日の「私」に残された時間は今日という1日だけである。「私」の役割はその限られた時間を使って、その生活を「明日の私」に引き継ぐことだ。

今までの「私のため」という行為は、「私のため」と「明日の私のため」という2つの行為に分かれる。本当に「誰のため」でもない刹那的な「今日の私」の為の自己満足的な行為と、連綿と続く「私」という巨大な歴史を紡ぐための「明日の私のため」の行為である。

「私」の行為の中で、「明日の私」に受け継がれていくものは、「明日の私」にとって嬉しいことだけであり、そうでないものはその日のうちに消えていく。「今日の私」のために生きるか、「明日の私」のために生きるか、それはあなた次第である。

もし、あなたが何か目標を持っており、「明日の私」のために生きようとするなら、この考え方はあなたを大きくサポートする。

この考えに立ったとき、これからあなたをサポートするのは、あなたという「歴史」を織り成してきた「昨日の私」達の成果である。あなたは1人ではなく、1年で365人のあなたが誕生し消えていく、彼らは皆、あなたが今日生きるために生きてきたのである。そして、今日の私は、そう望めば、明日の私達のために生きることができる。

このように作られる「歴史」プロセスはまさに、「私」と「人類」のプロセスと同じである。「私」という連続性はより細かな「私」の連続性から生成され、「人類」という連続性もまたより細かな個人という連続性から生成される。

あなたの中に、その連続性の階層を持つことが、他の「誰か」ではなく今日の「私」に意味を持たせることになる。


■明日の私のために

あなたは、ついてない日や、うまくいかない日があれば「今日はついてない。明日頑張ろう」と言うかもしれない。しかし、人生の最後を迎えたそのときに、「今回の人生はついてなかった。また次の人生で頑張ろう」などとは決して言わないだろう。あなたの人生は終わり、次の人生はないからである。

「私」が分割され、1日限りの「私」になったとき、あなたは、それがどんな1日であったとしても納得せざるを得ないということに気がつくだろう。今日あなたが「明日の私」のために成したことはなんだろう。もちろん、悔いが残る場合もあるだろうし、大きな成果を残せることもあるだろう。しかし、それがどんな状況であっても、それは終わるのである。

だから、分割された「私」の1日の終わりは「私」だけの世界である。心の問題と言っても良い。良いか悪いかは心が生み出すものだからだ。

しかし、次の朝、分割された「私」が始まったとき、「昨日の私」が残したもの、それが「悔い」であれ「成果」であれ、あなたが受け取るのはその「結果」だけである。それが消え去るという意味なのだ。そして、さらに次の「明日の私」に何が残せるかが重要なのである。

もし、あなたが大きな事を成そうと思っているなら、「明日の私」にそれを引き継ぐことである。大きな事を1日で成すことはできない。たとえ1日で成されたように見えても、それは巨大な連続性の中で成されたことなのだ。

あなたが何かをするのは「私のため」ではなく「明日の私のため」である。さらに言えば、その先の「大きな事を成している私のため」である。そのための数多くの「私」たちのバトンリレーがあって初めて大きな事は成しえるのである。

そして、大きな事が成しえれば、それはおそらく人類の歴史にも引き継がれていくだろう。そこにいたるまでには、数え切れない人数の「私」とあなたの後援者が必要だ。そこには1日限りの「私」を全く越えたパワーが働いていることだろう。あなたは「明日の私」のために今を生きて、「今日の私」と共に消えていく。そして、次の日は別のあなたがその生活を受け継ぐのだ。それがあなたという歴史、人類という歴史を作っていくのである。