2011年10月10日月曜日

【翻訳】スティーブ・ジョブズの伝説のスピーチ

スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチが良いので翻訳した。大部分は忠実に訳したつもりだが、活字の文として読み易く改変した箇所も多々ある。もちろん、このスピーチについては他にも翻訳しておられる方が沢山おられるので他のものも参考にしていただきたい。

翻訳文や字幕によって少しずつニュアンスが違うのが面白い。

しかし、ニュアンスという点ではやはり生には適わないものがある。
動画がyoutubeで見られるので気になる方はこちらを。動画の日本語字幕は
mbp&coとある。
http://www.youtube.com/watch?v=qQDBaTIjY3s

英語版の書き起こしは
http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404
で見られる。

以下、翻訳文と訳者注。

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スティーブ・ジョブズ

2005年スタンフォード大学卒業式のスピーチ全文(和訳)

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(聴衆に応えて)ありがとう。

 今こうして、世界でも最高峰の大学の卒業式に同席できることをとても光栄に思います。実のところ、私は大学を卒業していないので、これが私の経験する「大学の卒業」に一番近い経験ということになります。

 今日、私が皆さんに伝えたいのはある3つの話です。それだけです。大したことはありません。たったの3つです。



 1つ目は「点を繋ぐ」という話です。
 私はリード大学をはじめの6ヶ月で中退したのですが、本当に辞めてしまうまでの18ヶ月間は相変わらず大学にもぐりこんでいました。では、なぜ私は中退したのか?それは私が産まれる前にまで遡ります。
 私の生みの母は若い未婚の大学院生で、私を養子に出そうと決めていました。生みの母は、大学出の方にと強く願っており、私がある弁護士夫婦の元に行けるようにと準備をしていました。ところが、その弁護士夫婦は最後になって「やっぱり女の子がいい」と決めたのです。そこで、順番待ち名簿に載っていた私の両親の元へ、夜遅く一本の電話がかけられました。「予定外の男の子がいるのですが、どうですか?」と。両親は「もちろん」と答えました。
 後になって生みの母は、私の母が大学を出ておらず、父も高校を出ていないことを知りました。それを聞いて、生みの母は養子縁組のサインを数ヵ月間拒みましたが、私の両親が「子供を大学に入れる」と約束することで折れました。

 これが私の人生の始まりです。そして、17年後、私は大学に入ることになりました。しかし、私が世間知らずにも、スタンフォードと同じように学費の高い!大学を選んでしまい、労働者階級であった両親の貯えはほとんど大学の授業料へと消えていきました。
 6ヵ月後、私は大学に価値を見出せずにいました。私は「人生でやりたいこと」も無かったですし、それを大学が「どう導いてくれるか」も分からなかった。それなのに、私は両親が一生をかけて得たお金をすべて使っている……。だから、私は中退することを決めたのです。きっとうまくいくだろうと信じて。
 そのときはとても怖かったですが、振り返ってみると最良の決断だったと思います。中退した瞬間に、興味の無い必修クラスに出なくても良くなりましたし、もっと面白そうな授業にもぐり込むこともできました。

 もちろん、すべてが薔薇色ではありませんでした。寮が無いので、友達の家の床で寝ていました。5セントのためにコーラの空き瓶を集めて、食べ物を買ったりもしました。毎週日曜の夜には、町から7マイル離れたクリシュナ教団の寺院にいって食事をもらっていました。あれはとても良かった。
 そうやって、好奇心と直感にしたがって巡り合った多くのものが、後になってかけがえの無いものに変わっていったのです。1つ例を挙げましょう。

 当時、リード大学はおそらくアメリカで最も優れたカリグラフィー(西洋書道)の教育を行っていました。キャンパスのあらゆるポスター、(引き出しの)ラベルは手書きで美しく綴られていました。私は中退していて通常の授業を受ける必要がなかったので、カリグラフィーの授業を受けてその方法を学ぼうと決めました。私は、セリフ体やサンセリフ体、文字の組み合わせごとに変わる空白の大きさ、何が素晴らしいタイポグラフィをそうさせるのかを学びました。それらはとても美しく、歴史深く、芸術的で、科学では捉えられないような繊細さを備えていました。私はそこにとても魅力を感じたのです。

 このような経験が私の人生の中で、何かの役に立つとは少しも思っていませんでした。しかし10年後、私が最初のマッキントッシュのコンピューターをデザインしたとき、それらがすべて甦ってきました。そしてそのすべてをMacの中に注いだのです。それは美しいタイポグラフィを持つ、世界で初めてのコンピューターでした。もし、私がその授業にもぐりこんでいなかったら、Macは多様な書体やプロポーショナルフォントを持ち得なかったでしょう。「Windows」は単にMacの複製品だから、そのような(美しいフォントを持った)パソコンはこの世に存在しないことになります。

(聴衆が沸く)

 もし、私が中退していなかったらカリグラフィーの授業にもぐることもなかったし、パソコンも素晴らしい書体を持ちえなかったでしょう。もちろん、大学にいたころにそれらを見通し「点を繋ぐ」ことは不可能でした。しかし、10年後の今、振り返ればそれらの点はとても鮮明に繋がれているのです。繰り返しになりますが、未来に向かって点を繋ぐことは出来ません。出来るのは過去を振り返ってそれらの点を繋ぐことだけです。だから、私達はそれらの点が将来予期せぬ形で繋がっていくということを信じなければいけません。
 あなたは何かを信じる必要があるのです。それは根性、運命、人生、カルマ、何でも構いません。なぜなら、それらの点が繋がり道になると信じる事、そのことが、決まりきった道を外れ人と全く異なる道を歩んでいるあなたに、「ただあなたの心に従えばよい」という確信を与えてくれるからです。



 2つ目の話は、「愛と喪失」についてです。
 私は幸運でした。人生の早い段階で大好きなことを見つけることが出来たからです。私が20歳のとき、ウォズと私は両親のガレージでAppleを始めました。私たちは10年間必死に働き、たった2人で始めたAppleは20億ドル、従業員は4000人を越える大企業になりました。その1年前、私達は最高の製品マッキントッシュを送り出し、(次の年)私は30歳になりました。ところが、なんと私はクビになったのです。創業者がクビだなんて、ありえますか?

 私たちはAppleが大きくになるにつれ、才能があり一緒に働いてくれる人達を雇っていきました。はじめの1年ぐらいはうまく行っていたのですが、私たちのビジョンは次第に食い違うようになり、最終的に決裂してしまいました。その時、取締役会が彼に味方し、私は30歳にして退職することになったのです。とても有名な退職でした。
 私の人生の焦点すべてが消え去り、とても壊滅的でした。数ヶ月は何をすべきなのかが分からず途方にくれていました。私は先人の起業家達を失望させるとともに、彼らから受け継がれたバトンを落としてしまったのだと感じました。私はデビッド・パッカードとロバート・ノイスに台無しにしてしまったことを詫びようかと考えました。私はとても有名な落第者だったので、シリコンバレーから逃げようかとも思いました。しかし、次第に何かが見えてきたのです。
 それでも私は、今までやってきた仕事が好きなのだと気がつきました。Appleで起こった出来事はそれを少しも変えませんでした。私は拒絶されてもまだ、その仕事が好きだったのです。だから私はもう一度それを始めてみようと心に決めたのです。

 その時は分かりませんでしたが、Appleからクビになったことは人生の中で最良の出来事でした。成功者としての重圧は、再び駆け出しの頃の軽快さに変わりました。自信はなくなりましたが、クビになったことは私を自由にし、私を人生で最もクリエイティブな期間へと導きました。その後の5年間の間にNeXTという会社とPixerという会社を設立し、私の妻になる素晴らしい女性とも恋に落ちました。Pixerは世界で初めてコンピューター・アニメーション映画「トイストーリー」を生み出し、今では世界で最も成功したアニメスタジオです。

(聴衆が拍手を送る)

 思いもかけずAppleがNeXTを買収し、私はAppleに復帰することになり、私たちがNeXTで培ってきた技術は現在のAppleの再生の中心的存在となっています。また、ロリーンと私は今や素晴らしい家族と共に暮らしています。
 もし、Appleをクビになることがなければ、このようなことは起きなかったと確信を持って言えます。それはひどい味の薬でしたが、患者には必要だったのでしょう。
 人生では時々、頭をレンガで殴りつけられるような事態に陥ることがあります。でも、信念を失わないでください。私がここまで来られたたった一つの理由は、自分の行動を愛せたことです。あなたも愛せるものを見つけてください。それは仕事についても、恋人についても言える事です。仕事はあなたの人生の大部分を占めることになると思いますが、それを本当に満足のいくものにするたった1つの方法は、それが素晴らしい仕事だと信じること、そして素晴らしい仕事をする唯一の方法はそれを愛することなのです。

 もし、あなたがそれをまだ見つけていないなら、探し続けて立ち止まらないことです。心に関する他の問題と同じように、それを見つけたときは分かります。そして素晴らしい人間関係と同じように、年を重ねれば重ねるほど良くなっていきます。だから、探し続けること、立ち止まらないことです。



 3つ目の話は「死」についてです。
 私が17歳のとき次のような言葉に出会いました。『もし、毎日を人生最後の日のように生きていれば、いつか確実にその日がやってくるだろう』。私はその言葉に衝撃を受け、それから33年間、毎朝鏡の前で自分に問いかけています。「もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日やろうとしていることは本当にやりたいことだろうか?」。何日も続けて「NO」という答えが続くとき、私は何かを変える必要があると気付くのです。
 もうすぐ死ぬかもしれないと心に留めておくこと、それは人生における重大な決断を導く、最も重要な教えです。ほとんど全てのこと、周囲からの期待、プライド、失敗や恥への恐怖、それらは死に直面すれば消えうせてしまうのです。そこに残るのは、本当に大切なものだけです。「死」を心に留めておく事は、何かを失うということに心が捕らわれないようにする最良の方法なのです。君達ははじめからありのままなのです。自分の心に従わない理由などありません。

 1年前、私はがんと診断されました。朝の7時半にスキャンを受けたのですが、私のすい臓には腫瘍がはっきりと写っていました。そのとき私はすい臓が何かすら知りませんでした。医師はそれがほぼ間違いなく治療不能な種類の癌であり、3ヶ月から6ヶ月より長くは生きられないだろうと言いました。医師は私に家に帰ってやり残していることを片付けなさいと言いました。それは、「死ぬための準備をせよ」という意味なのです。つまり、これから先の10年の間に子供達に伝えようと思っていたことを数ヶ月の間に伝えよということです。家族が出来るだけ困らないように、すべてを整えておけということです。つまりそれは、「さようならを言っておきなさい」という意味なのです。

 私は診断結果を抱えて丸一日を過ごしました。その夜遅く、私は生体組織検査(生検)を受けることになり、食道から内視鏡を入れ胃を通じて腸にまで下ろし、すい臓に針を刺して腫瘍から細胞を取り出しました。私は鎮静状態でしたが、側にいた妻が顕微鏡で細胞を見ていた医師が叫んだと教えてくれました。その細胞が、手術で治療可能な非常に珍しいすい臓癌のものだと判明したからです。私は手術を受け、あり難いことに今も元気です。

(聴衆は神妙に聞き入りつつも、拍手を送る)

 これが私が死に最も近づいた経験です。この先数十年はそうであって欲しいと思います。この経験を通じて、私は「死」について、有用ではあるものの単なる知的概念だ、と考えていたころよりもはっきりと確信を持って述べることができます。
 「誰も死にたくない」。たとえ、死んで天国へ行きたいと思っている人たちでさえもです。しかし、それにもかかわらず、「死」というものは私たちが共有する終着点なのです。誰もそれを逃れることは出来ません。そして、「死」はそうあるべきなのです。なぜなら「死」というものは生命の作り出したおそらく唯一最良の発明品なのだから。「死」は人生に変化をもたらすエージェントであり、古きものを消し去り、新たなものに道をあけます。
 今まさに、新たなものは君達です。しかし、いつの日か、そう遠くない日に君達も古きものになり次第に消え去っていくでしょう。大げさな言い方で申し訳ないのですが、それは紛れもない事実なのです。君達の時間は限られています。誰かの人生を生きて無駄にしてはいけません。教義に捉われてもいけません。それは誰かの考え出した答と共に生きることだからです。他人の意見というノイズによって、心の内なる声、気持ち、直感をかき消されてはいけません。それらは最初から、あなたが本当に望んでいるものを知っているのです。それ以外のあらゆる事は、二の次です。

 私が若い頃、全地球カタログという私たちの世代のバイブルともいえる、驚くべき本がありました。
 ここからそう遠くないメロンパークの、スチュアート・ブランドという編集者が作ったその本は、彼の詩的な表現で見事にまとめられていました。これは60年代の後半、パーソナルコンピューターがまだ出ていない頃で、すべてタイプライターやハサミ、ポラロイドカメラで作られていました。これはGoogleが出てくる35年以上前の、Googleのペーパーバック版という感じのものです。そこには理念があり、優れたツールと偉大な信念で満ち溢れていました。スチュアートと彼の仲間は何冊かの全地球カタログを刊行し、一通りやり終えたのちに最終号を出版しました。70年代の半ばごろで私は君達とちょうど同じぐらいの歳でした。
 最終号の裏表紙は早朝の田舎道の写真でした。あなたがとても冒険好きならきっとヒッチハイクしている時に見るような光景です。そして、その下には「Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、馬鹿であれ)」と書かれていました。それは彼らの活動を締めくくる、別れのメッセージなのです。「Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、馬鹿であれ)」。私自身もそうありたいと思います。そして今日卒業を迎え、新たな一歩を踏み出す皆さんにもそうあってほしいと思います。

 「Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、馬鹿であれ)」。


以上です。みなさん、ありがとう。

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■訳者注
アメリカの大学では「中退」や「休学」というものは無いそう。各セメスターを同じ大学で連続して受講する必要は無く、新しいセメスターを受講しなければ、授業がなくなるだけで、別に退学扱いになるわけではない。ドロップインはもぐりのこと。

セリフ体、サンセリフ体は英語の書体のこと。
セリフ (serif) は、タイポグラフィにおいて文字のストロークの端にある小さな飾りを意味する。セリフのない書体はサンセリフと呼ばれる(sans-serif: フランス語で「セリフがない」という意味)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%95

プロポーショナルフォント (Proportional Font) とは、文字毎に文字幅が異なるフォントのこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%95

デビッド・パッカードは、世界的に有名なコンピュータ関連企業であるHewlett Packard社の共同創業者である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89

また、ロバート・ノイスは米国の半導体技術者であり、半導体集積回路(IC)の発明者の一人として、またIntel社の共同創業者として知られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%82%B9