2011年12月13日火曜日

知るとは何か

知るということについて、少し考えてみよう。

釈迦は苦しみは無明(簡単に言うと知らないこと)によって生まれると言った。では知らないほうが良い事というのはあるだろうか?何かを知ろうとするモチベーションは何だろうか?どのようなものから知れば良いのだろうか?また、効率よく知るにはどうしたらよいのだろうか?ところで、知識とは何だろうか?逆に忘れるとはどういうことだろうか?

結局、知るということはどういうことなのだろうか。それらを以下で解説する。


■知れば知るほど良いのか?

知って損をするということはあるだろうか?損をすることが無ければ、知識は無条件に得るべしということになるが、経験的には損の仕方は次の2通りがありそうだ。

①気分を害する。
②他者にとって都合が悪くなる。

①は、気分の問題だ。恋人の恋愛遍歴や、ある美談の裏話、まずそうな食べ物の味など、本当に知って良かったか疑問が残ることはある。「知らないほうが幸せだった」「知って損した」という言い方に代表される。知識はある物事の判断基準になる以上、論理的には知らないより知っていたほうが良いということが言える。しかし、論理の世界を外れると一概にそうとは言えない。

②は、秘密にあたるものだ。「秘密を知ったからには生きては返さん」のように、秘密とされる事柄を知った場合に起こる。場合によっては圧力をかけられたりすることもあるだろう。より広く言えば、権力者にとって不利な状況になるような知識ということになる。ただし、必ずしも被害がでるとは限らず、直接の被害が出るかは程度問題である。

つまり、論理的に判断すべき範疇にあって、権力者の直接の秘密にあたるものでないものであれば、知っているのにこしたことは無い。

■「知らない」ことが「知る」モチベーションとなる

知ろうというモチベーションは「知らない」ということから生み出されるように思う。なぜなら、「知っている」ことを「知る」ことには意味が無いからだ。(経済の言葉で言えば、限界効用が0ということになる。)「知っている」ことには価値がなく、「知らない」ことだけに価値がある。だから「知らない」ことを「知りたい」と思うわけだ。

しかし、注意が必要なのは、実際の知るべきかどうかの価値判断は、「知らない」ことではなく、「知らないと思われる」ことに基づいてなされるという点だ。本は読んでみなければ、何が書いてあるかは分からないし、食べ物の味は食べてみないと分からない。つまり、「知っている」かどうかは知ってみるまで分からないのだ。

だから、本当は「知らない」から「知りたい」のではなく、「知らない」と思うから「知りたい」のである。

そこで、「知っている」と勘違いしていることを正しく知るには、「本当に知っているかどうか」を疑うことが重要になってくる。そのためには、「知っている」ということを01ではなく程度で考えると良い。具体的には

①名前を知っている。
②内容を聞いたことがある。
③要点を説明できる。

の3段階で考えればよいだろう。③までいけば、「知っている」とみなしても良い。


■知識の優先順位は複数ある

さて、デメリットの無い知識はあればあるだけ良いと考えられるが、情報の収集や知識の修得には時間がかかるため、時間に見合わないと思えることや、無駄と思えることもあるだろう。そこで、どのようなことから知っていくべきかという取捨選択をする必要がある。では、その判断基準は何だろう。

列挙してみると次のようになる。

①ゴールとの合致
②好みとの合致
③他者の評価との合致
④脱線
⑤無作為

①は、ゴール(目標)に関係ありそうな事柄を優先するやり方である。これには、ゴールの設定が必要である。

②は、好みを優先するものである。それは知って楽しいということである。これは重要なことであるが、内容が偏りやすいという欠点もある。

③は、名著と呼ばれているものだとか、売れている本ランキングだとか、好みやゴールではなく、他者の評価の高いものを優先するやり方である。これは情報にある程度の信頼が持てる。

④は、当初の目的でないものにシフトしていくやり方である。これは、たまたま何かを見つけて世界が広がる可能性がある。簡単に言えば脱線するということである。

⑤は、無作為に選ぶということである。これは、意味が無い。無作為に選んで、重要な情報にあたる可能性は低い。(例えば、すべてのウェブサイトからランダムに1つのページを開くことを想像してみればよい。)

ちなみにナレッジダイビングでは、①~④をうまく複合している。

■知れば知るほど速くなる

優先順位と別に大事になるのが、収集、修得にかかる時間だ。この絶対スピードが速ければ優先順位をそれほどシビアにすることなく、網羅的に知ることが出来る。このスピードには3つの要素がある。

①文字を認識する速さ
②事前知識の量
③理解する速さ

①は、単純に読む速さである。特に言語で記述された情報、知識についてはこれがクリティカルに効いてくる。これは練習次第で極めて速くなるとされる。(実際に極めて速く読める人が存在する。)

②は、書いてある語句の意味が分かるかどうかである。例えば、wikipediaのアインシュタインの項には「アルベルト・アインシュタインは、『ドイツ』生まれの『ユダヤ人』『理論物理学者』。」と書いてある。この時、「ドイツ」や「ユダヤ人」、「理論物理学者」という語句が何を意味するかを知らなければ、この文章は「アルベルト・アインシュタインは、『とある国』生まれの『とある人種の』『とある職業の人』。」と言っているのと変わらない。つまり、語句について「名前を知っている」レベルでは読んだとしても、読めたことにはならない。逆に言えば事前知識が多ければ多いほど、このような無駄が無くなり、単位時間当たりに実質的に読める量が増える。

③は、事柄を理解する速さである。語句の意味が分かったとしても、その文章全体が何を意味しているかを理解しなければ、その内容を知ったことにはならない。そのため、情報の意味を理解する速さが重要となる。理解する速さは、抽象思考の訓練によって高めることができる。

■知識はネットワークである

知る対象、特にここでは知識について述べる。

知識というものは、それだけで独立したものは存在せず、必ずネットワークになっている。ある知識について説明するには他のものを持ち出すしかないということを思い起こせば良いだろう。これはある知識についての定義のネットワークであり、仏教の言葉で言えば縁起である。

あることを知るということは、それに付随するネットワークを探索することに他ならない。この探索手法は大きく分けて2つに別れる。

①下位概念の参照
②芋づる

①は、下位概念(外延)を網羅するやり方である。例えば、犬の犬種一覧からすべての犬種を調べるなどいうような調べ方である。ある限られた範囲を網羅したい場合に向いている。ただし、「あ」のつくものなど、必ずしも適切とは言えない様な上位概念もある。そのようなものは、各下位概念間の関係性が少ないため、上位概念の深い理解につながるとは考えにくい。

②は、概念の抽象度に関係なく、定義のネットワークを参照していく方法である。例えば、犬にまつわる事柄(動物、食性、人間との関係など)から別の項目に移る。犬→ペット→癒し、犬→生物→DNAなど、色々な方向にすばやく移動できる。この方法はネットワークの全体像を把握するのに向いている。また、予期せぬ発見も生まれやすい。これは相互定義のネットワークであり、連想とは若干異なる。

②の方法はナレッジダイビングで用いられる。

■知識は階層性を持つ

また、知識は抽象度の順に並べ替えると階層構造になっている。一見多種多様に見える知識も、上位概念のゲシュタルトが出来れば、ある共通性を持ったまとまりに見える。上位概念について成り立つことは下位概念にも成り立つため、より上位にある知識について理解すると適用範囲が広く有用である。

このような、階層的知識を得る手段としては2つの方法がある。

①帰納的
②演繹的

①は、ある下位概念を網羅することにより、そこから共通の上位概念導き出すものである。
②は、ある上位概念を用いて、その下位概念となるべきものを説明するものである。

これらの方法は一般には複合しており、プロセスとしては、まずいくつかの概念から導き出される上位概念を仮定し、その上位概念が、下位となるべき概念をどの程度説明するかという形で用いられる。つまり、上位概念は帰納的に仮定され、演繹的に検証される。

このようなプロセスを経て、ある知識についての理解レベルは「内容に触れたことがある」から「要点を説明できる」に到る。一説によれば、「要点を説明できる」レベルに理解した事柄は無意識によるバックグラウンド処理が可能になり、問題解決を圧倒的に助けると言われている。

■抽象度の高いものは忘れない

知識は、無意識が重要ではないと判断したものについては長期記憶に移行されず忘れられる。この長期記憶への移行は主に睡眠中に行われていると言われている。

忘れるということについては次の2つの考え方がある。

①記憶が定着しなかった。
②思い出せないだけ。

①は、定着のプロセスに問題があり、②は思い出すプロセスに問題がある。これらを回避するためには、それぞれに対応して次の手段がある。

①重要度を上げる
②思い出す

①は、定着されるよう無意識にとっての重要度を上げる手段である。人間はどちらかというと成功よりも失敗から学ぶ方が優位になっている。成功した事柄よりも、失敗した事柄の方が生存に関係する可能性が高いからだ。そこで、わざと間違えるというのが手段としてありうる。間違えるために「説明しようと試みる」ことも有効と考えられる。

②は、思い出すことによって、神経回路を強化することである。何度も思い出していれば、記憶を引き出し易くなる。

ただし、そもそも忘れるという現象は極めてありふれており、そこに神経質になる必要はない。ある本を読んだ後にその文章すべてを暗誦できるかを考えてみれば、短期記憶はほとんどが失われる性質のものであることが分かる。

その点を踏まえると、知識を修得する際に重要なことは、その細部ではなく抽象的理解である。これはゲシュタルトの構築とも言われる。抽象的理解をすることによるメリットは次のようなものがある。

1つめは、単にその記述量が少ないということだ。抽象的理解は短い言葉で表すことができ、覚えやすい。2つめは、抽象度の高い概念は、常に刺激されるということである。これは忘却の防止につながる。抽象度の高い概念は、その下位概念に帰納的、演繹的に関連付けられているため、下位概念が刺激されると、同時に上位概念も刺激される。それによって、抽象的理解は常に利用可能なものとして保持される。このような2つの効果により、抽象的理解は覚え易く、忘れにくい性質がある。

■知るとは知識ネットワークのゲシュタルト化である

以上のことをまとめると、知るということは、ある知識についてのネットワークを階層的に理解(ゲシュタルト化)することだと言える。そして、その抽象度が高ければその知識はよく保持される。また、その前提知識(ゲシュタルトの量)が、更なる知識の修得スピードを左右するため、知れば知るほど知識の修得効率は向上する。