2011年4月3日日曜日

沈黙は金なり

議論するには時間と労力が必要だ。しかし、そのどちらにも限界があるということは皆わかっているだろう。
つまり、議論には「有益な結論」と「労力」のトレードオフが成り立っているのである。

そこで、結論の出ないような議論を避ける為には、その事柄について言及しないということが大事だ。
それを先人の言葉にならい「沈黙は金なり」と呼ぶことにしよう。「言い出すときりが無い」という言い方も逆説的に同じである。

まず、議論の前提として、相手の言うことを理解する、自分の意見を正確に伝えるということにも、詳細さに応じて労力がかかるということを知らなければならない。そもそも意思の疎通や、意見の集約それ自体が大変なこともある。

総じて言えば、議論の「詳細さ」や「正確さ」に応じて「労力」は増大する。

議論は途中でやめると「結論がでなかった」「理解されなかった」「理解できなかった」という不満が残る。そのことが、たとえ議論が途中で無駄と思われてもやめられない原因になる。「乗りかかった船」というやつだ。

そもそも、「すべての参加者が完璧に理解することを望むべし」というのは、ほとんど非現実的な考え方であって、まずはその必要性を疑うことが大事である。必要以上に議論に詳細さを求めれば、その議論自体が時間的、労力的制約によって破綻する。

そこで、その過程で得られる対価が十分でないと見込まれるとき、「始めない」というのが選択肢として実用的なのである。(もちろん始める場合は最短経路で終わらせるのがよいだろう。)

もし、どうしても徹底的な議論が必要な場合は、十分な対価を保証する必要がある。
それには金銭的なものだけでなく、教育効果や、キャリア的なもの、それによって得られる情報が有益なものなどがある。

(人間同士がコミュニケーションするときに、議論の内容に関係なく心理学的な効果(例えば気が晴れたり)はある。しかし、心理学的な効果を得るだけならば、結論は出なくても構わないし、もっと有効な他のやり方もある。)

ただし、少し注意しなければならないのは、必ずしも議論の前にその価値が分かるものではないということである。多くの人に経験があると思うが、思いがけない発見をすることもあり、対価が「不明」な場合、それを「無い」とみなすのは早計である。対価が「不明」な場合は「とりあえず始めてみる」が有効な場合もある。

これらをまとめると議論の開始と対象は次のように分類できる。

「始める」:十分な対価が得られる事。
「始めない」:十分な対価が得られず、意見の分かれる事。(沈黙は金なり)
「とりあえず始める」:十分な対価が得られる保証はないが、労力がかからず、
反対する人もいない事。(セレンディピティ)

とりあえず、注意が必要なのは2つめの「十分な対価が得られず、意見の分かれる事」
だけだ。これが「沈黙は金なり」の対象である。