2011年4月2日土曜日

「お祭り脳」とネット議論の限界

2ちゃんねる、ニコニコ動画、twitterなど、
コメントを投稿するコミュニティは増えたように思う。

このようなコミュニティの特徴は一言で言えば、「わっしょいわっしょい」である。

「わっしょいわっしょい」というのは要するに盛り上がりたいということである。
「わっしょいわっしょい」の密度が非常に高くなったものが「お祭り」であり、
さらに悪質さが加わると「炎上」となる。

あるネット上のサイトやサービスが、「わっしょいわっしょい」になる要因は2つある。

1.人が集まるところには、さらに人が集まる

人数が多いと更新頻度が上がり、コメント、コンテンツが充実する。
来るたびに新しい情報があるというのは極めて集客力があり、
そのコンテンツを求めて、人が多いところに人が集まる。

2.内容は反応しやすいものに変質する

コメントなどの「やり取り」は共感を生む。
共感を求めている場合、具体的には
笑わせたり、感心させたり、騙したり、煽ったりする。
逆に、レスを必要としないコメント、長い話、難しい話、真面目な話は
反応が得られにくいため抑制されていく。


ネットコミュニティの形成により、人は好きなときに、好きな場所で
「わっしょいわっしょい」できるようになった。
それがもたらす影響というのは、まだよく分かっていない部分が多いが
今回はネット上の議論という点に注目してみたい。

まず、意見の多様性であるが、
多人数のコミュニティでは、単に確率として複数の立場が出揃う。
その点では、反論さえないコミュニティよりは健全に見える。
しかし、それらを深めたり、統合する方向へは話が展開していかない。
そこには難しさの限界があるようだ。

特徴2で挙げたように、難しい内容というのはレスが得られにくい。
また、ネット上では、まとまった文章のやり取り自体が大変な労力を要する上に、
ディベートでいうジャッジというものが存在せず、反論の反論をしていったところで収集がつかない。

そこで、難しくないギリギリのラインは、意見、ソースを参照する事である。
つまり1次ソースのリンクを貼ったり、内容をコピペすることだ。
それを各人が覗いて考える。それが限界であって、その内容について議論することは難しい。

つまり、「ソース」に「わっしょいわっしょい」がくっついたものが、一見議論している
かのように見えるものの正体である。

ここで、ソースについて考えたり、疑問を持ったりしない立場を「お祭り脳」と呼びたい。
「お祭り脳」にとっては、ソースや、ある人の意見は「おはやし」にしかすぎず、
それが「わっしょいわっしょい」できるかどうかが重要なのである。

「お祭り脳」はコミュニティの中では全く問題が無い。なぜなら、それに
共感する人は沢山いるし、そのことを糾弾されることもないからだ。
「お祭り脳」はある意味コミュニティへの最適化であり、もっとも簡単に
共感を得られる立場でもある。

「わっしょいわっしょい」はしばしば「炎上」へと結びつき、それが妥当かどうかに
係わらず社会を混乱させる。ただし、このことは論理的には突破しにくいバリアーを
突破することがありえるため、既存の体制が悪質な場合は良い結果をもたらすことも
ありえる。
(近代国家としてどうか、あるいは人間としてどうかという点は悩ましいが、
暴動もまた社会を変えうるものである。)

ただし、「お祭り脳」に問題点が無いわけではない。それはコミュニティの中ではなく
もっと「個人的な問題」についてだ。

「個人的な問題」とは例えば、自身の収入に関係する仕事、個人的な人間関係などに
おける問題である。

個人のかかえている問題、目標はそれが個人的になればなるほど、
人に理解される事がなく、他人と共感する事は難しくなる。

誰もそのことについて知らないし、知ろうとも思わない。しかしそれが
自分にとって重要なことである場合、その問題を解決するにはソースを参照し
「自分の頭で考える」しかない。

そこには理性や明晰さが必要であり、それらは訓練によってのみ培われる。

我々が「自分の頭で考える」のは個人の問題を解決する為だ。たまたま、
それがコミュニティの中のソースになることもあるだろう。しかし、コミュニティの中では
難しい話は省略され、その結果としてのメッセージだけが受け取られる。

「お祭り脳」は「個人的な問題」の解決に全く役立たない。

国家レベルの問題であっても、実際にそれを職業として考えている人々は存在する。
彼らにととってそれは非常に「個人的な問題」である。彼らがその「個人的な問題」を
考えることによって、世の中は成立している。その問題にソースを提供しているのも
彼らである。

こうして見ると、我々の収入、生活を支えているものは人々が「個人的な問題」を
解決するために「自分の頭で考える」行為それだけであって、「お祭り」はあくまで
健康を維持するとかその程度の娯楽でしかないのである。

ネット上で大きくなった人々の声は、あたかもすべての人が社会的問題に取り組んでいる
印象を与えるが、ネット上の議論はあくまで「ソース」と「わっしょいわっしょい」に分離
されており、そこにいるユーザーは「お祭り脳」化している。
社会的問題に取り組んでいるのはそれを「個人的な問題」としている人だけであり、
彼らが「ソース」や「解決案」を提供しているのだ。