2011年4月8日金曜日

夢見る創作法

「夢を見るように創作するんだ」

ライツニヒはまるで独り言のようにそう言った。

僕にはそれがどういう意味かまるで分からなかった。僕はもっと
原理的で、説明的で、そうあたかも工学のような手法を想像していた。

ライツニヒは普段、日曜版の新聞についてくる数学パズルを喜んで
といてるような男だった。そんな男が創作について論文を書いているというので、
文科系の僕は興味を引かれたのだ。

「君は意外に詩的な事を言うのだね」

ライツニヒは手にしていた分厚い本を閉じて、僕の方を見た。
彼の目は青かった。僕は彼がその本の開いていたページ数を
目印をつけるように見やるのを見逃さなかった。

「そうじゃないさ」

彼は少し笑みを浮かべながら、友達を驚かせようとしている子供のように
 目を輝かせた。

「説明して欲しいところだね」

僕がそれに応じてみせると、彼は少しためらう様なフリをしてから
「よろしい」と言った。

「まず君は創作法というものを、科学の一分野か何かのようなものだと
思っているらしい」

えらくもったいぶった言い方である。

「君がそれを発見したと聞いたけど、違うのかい?」

ライツニヒは『フフン』と言ったような気が僕はした。

「それは半分正しいね。しかし、物理学だとか、言語学だとかそういった類ではないんだ。
強いて言うなら、脳科学ということになる。

君は夜に夢を見たことがあるだろう?」

「そりゃあね」

「それじゃあ聞くけど、その夢の著作権は誰に帰属すると思う?」

「君は夢日記でもつけろと言うのかい?」

「半分はそうだが、半分は違う。僕は夢も創作も本質は同じなのではないかと
考えているんだ。創作とは何だろう?未知のものを生み出すことだろうか?
それは、おそらく『自分も知らない』ものを生み出すということだと思う。
じゃあ、我々は『自分も知らない』ものをいったいいつ生み出しているだろうか?」

「それが夢だと?でも、僕は夢を創作だとは思わないね」

「そう夢はヒントでしかない。夢は内容をコントロールできないし、いつ見られるかも分からない。
しかし、夢の合成能力には注目する必要がある。僕は、『半分夢を見ている状態』
それが創作の本質だと捉えているんだ。『白昼夢』といった方が適切かもしれない」

「『半分夢を見ている状態』?」

「意識のレベルを落とすということさ。意識がはっきりしている状態では合成能力を
発揮できない。しかし、落としすぎると寝てしまうし、指向性を確保できない。

初歩的なところは瞑想と同じだ。呼吸に着目して体の力を抜いていく。そして
意識のレベルを落としていく。その後で創作に関わる場面や事項を思い出すのが効果的だ。
そこで、創作に関する『記憶』の構築が行われる」

「どうも妙な話になってきたね。じゃあ物語の法則性みたいなものを
利用するわけじゃないんだね」

「重要なのは、創造能力、あるいは記憶の合成能力というものが無意識の持っている能力
ということなんだ。だから、意識のレベルは落とす必要あがあるし、創作の法則性を
生かした方法はうまくいかない。例えば物語論やグラフ理論を用いた解析的手法は、
物語を形式的に合成できたとしても無意識の抵抗にあってしまう。意識的な方法論は
結局、記憶というバックボーンがネックになるんだ」

僕は彼の話についていけているのか少し不安になった。ただ、彼がどうも『工学的』な
創作法を発見したのではなく、『瞑想的』な創作法を発見したということは
理解出来た気がする。

「それで例えば僕が作家になるにはどうすればいいんだい?」

「まず、意識のレベルを落とす訓練をすることだね。それが出来れば、
大事なことはほとんど無意識がやってくれるよ」

「意識のレベルを落とすというのは意外な結論だね」

「そう、それが『夢見る創作法』の本質さ。ただ、僕は意識の役割をまだ捨て切れては
いないんだけどね」

ライツニヒは得意げであったが、また同時に不満気のようにも見えた。きっとそれは、彼が
修めてきた科学の有用性への信奉だとか未練のようなものなのだろう。

僕は、彼と共有できない彼の葛藤のようなものをうっすらと感じたが、それは僕にとって
言語化するには希薄すぎた。
ただ、人間という括りの中で創造性にまつわる機能について、何らかの共通部分を
彼は提供してくれたようだ。
 それは多くの人の隔たりである、出生や立場を越えて誰しもが経験しうることなのかもしれない。