2011年4月14日木曜日

アンチコミュニティのジレンマからクオリティ主義へ

思いつくがままに文章を書くというのは楽しいものである。

それは子供としての自由で無邪気な発想が、何の制約も受けないまま創出されるからであろう。

しかし、その書き手が大人である場合、思いつくがままの文章を構成することに何の意味があるのか?ということを考えずにはいられない。

あるいは、逆に言えば、褒められたいとか、参照されたいとかいう、承認の欲求を捨てられるものではない。
なぜならば、承認されることもまた楽しいからである。この欲求は親などから無条件に承認されうる子供よりも、社会的価値を問われる大人の方が強いかもしれない。

しかし、ある文章を書く場合に、その文章が自分以外の誰かに読まれるということを前提とするとおのずとその表現には制約が生まれる。このことは、思いつくがままの文章の楽しさというものを阻害しないだろうか?

これは文章以外の表現でも同じだろう。

私は過去に、思いつくがままの楽しさを阻害しない枠組みとして、社会的制約から自由である活動というアンチコミュニティを提唱した。

しかし、アンチコミュニティというのは先にあげた、承認の欲求という楽しさとは矛盾する。アンチコミュニティの狙いは創作のエネルギーを阻害しないということであったが、その点でやはり、アンチコミュニティにも創作のエネルギーを失わせる要因があることには違いない。

つまり、コミュニティかアンチコミュニティかの2者択一の選択では、エネルギーの喪失というものを免れることができない。
これがアンチコミュニティのジレンマである。

そこで、今度はさらに別の見方を提唱しようと思う。それは、創出されるもののクオリティを重要視するということである。これを「クオリティ主義」と呼ぶことにする。

まず、ある情報がコミュニティの中で共有されるとき、その原動力となるのは、その情報自体のクオリティである。

あるコンテンツがユーザーによって自発的に参照される傾向がある場合、それをそのコンテンツが「拡散力」を持つと呼ぶことにしよう。あるコンテンツが「拡散力」を持つ要因の一つに、そのコンテンツ自体のクオリティが高いということが挙げられる。

現在のネットコミュニティの存在は、情報へのアクセスを容易で広範なものに変え、クオリティの方向性についての自由度を大きく広げた。このような環境ではクオリティさえ高ければ、それがどんなものかということはあまり問題にならない。
それは、そのようなものが好きな人がコミュニティに存在する可能性が高いからである。

別な言い方をすれば、我々はコミュニティにおいて「自分の思いつくがままの感性を共有しうる人物が必ず他にもいる」と仮定する。(これを共有性の仮定と呼ぶことにする。)

このような仮定の下では「何を」作るかということについて、我々はまったく思いつくがままでかまわない。
そして、その「何か」についてクオリティを上げるということだけに注目すれば、そのコンテンツ自体の拡散力によって、承認の欲求は自ずと満たされるだろう。

我々が創作の枠組みについて憂慮すべきことは、それが共有を前提とするかどうかではなく、クオリティを上げられないかということだけである。

最後に注意点を挙げるならば、コミュニティの流行を追うのではなく、自分の流行を追うということであろう。コミュニティの流行を追えば、承認の欲求は満足されるが、思いつくがままの楽しみというのは失われる。
一方自分の流行は、先の仮定によれば、少なくとも自分だけの流行ではない。ゆえに、それが十分なクオリティをもちさえすれば拡散され、承認の欲求も思いつくがままの楽しみも同時に満足される。

また、全く別の尺度として、それが金銭的対価を要求するものである場合、生活のためにある程度の規模を持つコミュニティに属する内容を扱うというのは必要なことだろう。特に創作を経済基盤とする場合にはそれが重要になる。それは言い換えれば、思いつくがままというエネルギーの喪失分を、金銭的対価で補うということだ。

私たちの創作のエネルギーは、思いつくがまま、しかもそれが承認されるときに最大化される。そのために、コンテンツ自体のクオリティにこだわるということが現代の良策ではないだろうか。